「百合」ジャンルの本質を”理解”ってしまいました

(書いた人:レニ)

 

 百合について考えていたら夏休みが終わっていたんですよ。

 

 「百合」というジャンルを成り立たせるものについて、サークルの活動を通して、また自分で作品に触れていく中で、社会学でレポートを書けるくらいには考えがまとまってきたので、それを元にしつつメモ的に考えを残しておきたいと思います。

 

1、「エンコーディング/デコーディング」から考える「百合」

 

 まず、「百合」というジャンルの特性を考えたとき、「その外延が曖昧である」ことがあると思います。もちろん、あらゆるジャンルにおいて「これはAである」と適応できる範囲に関しては議論が生じるものですが。しかし、例えば田原(2020)は、同じ同性間の関係を扱うBLに比べ「百合ジャンルは(しばしばこのジャンルがガールズ・ ラブと呼ばれるにも関わらず)必ずしも恋愛関係であることを必要条件としない曖昧さをもって」いると指摘し、「物語られる関係性の質を限定することもできない」と論じます。またMaser(2015)も、「百合」の定義に関する議論はファンの間でも避けられる傾向にあるとし、それが「地雷原minefield」である、とまで言っています。このように、百合に関しては特にこの傾向が顕著であると考えます。

 

 そして、この曖昧さを考えた時に示唆的なのが、(以前ツイートした)『コミック百合姫』2011年1月号の特集記事です。この記事では、「百合脳を鍛える」として、様々な作品に対して「これは百合である」という読みを行ってみることが奨励されていまいた。

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 この記事は、「百合」として指示されている対象の中に、「誰がどう読んでも『これは百合である』と読める」作品と、「読み手によって『これは百合である』と読めたり読めなかったりする」作品が存在していることを示唆します。

 

 ここでは前者を「庭園の百合」(「まどマギ」座談会参照)、後者をシュレディンガーの百合」と呼んでおきましょう。

 

 

 そして、こうした「読み」の多様性を捉えるために、カルチュラル・スタディーズの理論的枠組みを導入したいと思います。スチュアート・ホールのエンコーディング/デコーディング」モデルです。これは、20世紀半ばのマスコミ研究が単一的・受動的な受け手を想定していたのに対し、様々な受け手の重層的で多様な「読み」に焦点を当てるために生まれたものです。(ここでは山口(2001)の説明に依拠)

 「エンコーディング/デコーディング」モデルでは、メディアの社会的意味が発話者のエンコード(意味の発信)と受話者のデコード(意味の解読)により創出されるとします。そして、受け手のデコードには、3つの立場が存在します。

 

①支配的な位置エンコードの〈意図〉とデコードの〈読み〉がほぼ一致する。

この「読み」では、メディアのメッセージは読み手に、送り手の「こう読んでくれ!」という意図の通りに「解読」されます。例えば、『ONE PIECE』を少年漫画として読む読者、みたいな。

 

②交渉的な位置:支配的な〈意図〉や期待された〈読み〉の力を大枠で認めつつも、独自の〈読み〉を部分的に試みる。

この「読み」では、メディアのメッセージに対し、受け手は一部ではそれに基づきつつも、一部ではメディアのメッセージに留まらない「解読」を行います。例えば、『ONE PIECE』を読んだ読者が、その内容に基づきつつも、友情関係を恋愛関係として表現し、「攻/受」や「カップリング」等のルールに基づき「やおい」同人誌を作成する場合は、これに該当するといえます(永井2002、金田2007)。

 

③対抗的な位置:支配的な〈意図〉や〈読み〉に対立した独自の〈読み〉を実践する。

この「読み」では、メディアのメッセージにおける送り手と受け手の認識は、完全に異なるものとなります。『ONE PIECE』の例はパッと出てきませんが。

 

 

 この「エンコーディング/デコーディング」理論の言葉で、「百合」ジャンルの内実を分析していきます。

 

 まず、誰がどう読んでも「百合」と読むことのできる「庭園の百合」について。例えば、『コミック百合姫』掲載の作品や、タイトルに「百合」とつく作品なんかは、既に作品自身が「百合」と自己言及しているので、「庭園の百合」と言えるでしょう。また先述の図のように、表紙で少女2人がキスをしている作品も、「庭園の百合」と言っていいと思います。

 こうした作品に対して「百合である」という読みがほぼ自明に成立しているのは、作品を「百合」というジャンルに位置づけ、「百合として読んでくれ!」とする送り手の意図が存在し、読み手はそのエンコードされた意図を、掲載媒体やタイトルや表紙などを通して「正しく」デコードしているため、言い換えれば「支配的な位置」に立った読みが成立しているためといえます。

 

 では、読み手によって解釈に違いが出るシュレディンガーの百合」はどうか。

 ここで示唆的なのが、百合文研×ゼロ年代研で行ったまどマギ」座談会での議論です。

ku-yuribunken.hatenablog.com

 

 まず、「まどマギ」の送り手のエンコードとして「魔法少女アニメ」があることを確認しておきましょう。タイトルに「魔法少女」とあり、キービジュアルも5人の「魔法少女」の姿が映り、ストーリーも「何らかの契機により特殊能力を獲得し」た「少女が数々の問題を解決しながら成長していく物語」(小林1999)、という既存の「魔法少女アニメ」への意識が伺えます(もっとも、それは逆手に取られるのですが)。

 一方で「百合」に関してはどうか。とりあえずテクスト(一次資料としてのアニメ)や公式サイトを見る限り、作品を「百合」ジャンルに位置付けようという送り手のエンコードはみられないように思われます(実際には制作側がどれだけ「百合」を意識していたか、本当のところは分からないのですが、とりあえず議論の簡便化のためにそう仮定しておきます)。しかし一方で、ファンの反応や、「まどマギ」を「百合」に位置付ける論考(『ユリイカ 特集 百合文化の現在』における藤本(2014)など)の存在を見ても分かるように、受け手の側での「これは百合である」という「読み」が成り立ちうる作品であることも確かです。

 そして、座談会では、「まどマギ」が「百合」であると読む百合文研のメンバーと、そうした解釈を行っていないゼロ年代研のメンバーという、意見の相違がありました。ここから、まどマギ」は「シュレディンガーの百合」である、として話を進めます。

 

 「シュレディンガーの百合」において読み手が「百合である」という読みを行う、という現象は、いかなるものなのか。これを検討するとき、座談会での次の一幕が示唆的です。(【ゆう】:ゼロ年代研、【すず】:百合文研)

 

【ゆう】ちなみに僕はほむらと杏子の関係に微妙な良さを感じてしまうんだけど。あのビジネスライクな関係。

【すず】分かります。

【ゆう】ワルプルギスの夜に立ち向かう時も、「叛逆」の映画でも、「あなたはバカじゃない」っていう一定の信頼があるんですよね。戦士同士の絆みたいな。そういうところに良さを感じてしまうのは百合なのかな。どうですか百合の方。

【すず】百合です。

【ゆう】百合ですか。

 

 この場面の興味深さは、先述の「やおい」同人誌との比較で明らかになります。永井(2002)や金田(2007)の議論では、「やおい」同人作家の「交渉的な読み」においては、友情関係の恋愛関係への読み替えや、「攻/受」「カップリング」といった固有の解釈コードに沿った読みがなされることが指摘されています。しかしこの場面では、ゼロ年代研と百合文研の2人は、テクストに描かれた関係性を全く同じように読んでおり、しかしそれに「百合」という名付けを与えるか否かという一点でのみ、違いが生じているのです。この場面は分かりやすい一例として提示しましたが、座談会では、テクストの読解に関しては意見が一致し、しかし「百合」という名付けに関しては相違がある、という状況がしばしば起こっていました。

 

 「女同士の関係性」と「『百合』という名付け」が必ずしも対応していない、という認識は、ゼロ年代研の人々からも語られていました。

 

【ちろ】ぱっと、これは百合だ!という感覚が僕の中にないです。僕もヘテロラブ作品に出てくる女同士の関係みたいのは好きなんですけど、なんだろうな。

 

【ゆう】何というか、僕は百合は「やが君」を通じてしか分からないんだけど、「やが君」の良さは分かるんですよ。(中略)女の子同士の良さはめっちゃ分かる。でも、「百合」ってパッケージされるものの良さはいまいちよく分からないって感じ。だから「まどマギ」が百合的かって言われると、分かんないってなる。

 

 ここから、「シュレディンガーの百合」に関して、以下のように纏められます。

 まず、送り手のエンコードとして「百合」が意識されていない、女同士の親密性を描く作品が存在します。この作品に対し、「百合である」と意識しない読みは、「支配的な位置」にあると言えます。一方でそれを「百合である」とする読みも可能であり、それは「やおい同人誌」のように独自の読み替えや解釈コードを適応するのではなく、テクストをテクストとして引き受けながら、それに「百合である」という名付けを与えることによって成立します。言い換えれば、シュレディンガーの百合」では、それを「百合である」と名付けるという「交渉的な読み」が成立しうる作品なのではないでしょうか。

 

 

 改めて、冒頭の図に戻りたいと思います。

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 今までの議論を踏まえると、上の図が「エンコーディング/デコーディング」理論における「読み」の3つの位置に対応していることがわかります。

 

①「『コミック百合姫』は百合である」

―これは「支配的な位置」に立った読みである、ということができます。『コミック百合姫』は既に送り手が「百合である」という意図を発信しており、読み手がテクストからその意図をその通りに読みとるとき、①の命題が可能になります。(=「庭園の百合」)

 

②「『けいおん』は百合である」

―これは「交渉的な位置」に立った読みである、ということができます。『まんがタイムきらら』に掲載された本作は、一般的には「空気系」「日常系」というジャンル区分で語られることが多いでしょう。テクストにも(「送り手の意図」なるものを我々は真に読みとることができないが、少なくとも①と比べると)「百合である」という意図は薄いように感じます。これは、上の図が示しているように、「百合である」かどうか認識が分かれる作品といえます。『けいおん』に「これは百合である」という名付けを与える受け手の認識によって、②の命題が可能になります。(=「シュレディンガーの百合」)

 

③「『バキ』は百合である」

―これは「対抗的な位置」に立った読みである、ということができます。百合の必要条件を「女同士の関係」にあるとするならば、「『バキ』は百合である」という命題は文字通りには偽です。しかし、それでも③の命題を高らかに宣言することで、我々は『バキ』に対する読みのオルタナティブを獲得することができるのです。(=…なんて言えばいいんだろう。)

 

 

 

2、「百合である」という読みを成立させるもの

 ここまで書くと自動的に、次の2つの疑問が頭に浮かびます。

 

①「百合である」という読みを行える受け手と行えない受け手の違いは何か。

②「百合である」という読みが可能になる判断基準は何か。

 

 次に、この問いに関して、仮説的にはなりますが、検討していきます。

 

①「百合である」という読みを行える受け手と行えない受け手の違いは何か。

 先の座談会では、百合文研のメンバーから、次のような発言が聞かれました。

 

【いし】僕は作品を見ながら、百合はどこに散りばめられているかずっと探しながら読んでますね。フィルターとして最初に「あるかないか」っていうのが掛けられます。

【すず】あー。

【だち】あるある。それはある。(中略)自分は基本的にその、百合と言われる作品をずっと追って百合を読み続けてきたので、やっぱりフィルターは抱えます。

 

一方、百合に造形の薄いゼロ年代研のメンバーからは、次のような発言が聞かれました。

 

【ちろ】まず僕は百合を「百合」として見れないというか、何が「百合」なのかっていうのが自分の中での確固たる確信が無いんですよね……。

 

 この会話が示唆するのは以下の3点です。まず、「百合」が好きな人間は、作品を読む際、つねに「百合である」という「読み」を行う備えが出来ているということ。次に、その態度が「百合と言われる作品」に継続的に触れる中で会得されたものであること。そして、それは「百合である」という「読み」を行わない人間には存在しない感覚であるということ。

 ここからややアクロバティックに議論を展開すると、「百合」とされる作品を継続的に摂取することで、自分なりの「百合」観や、「百合」という読みを行う態度を学習し、それによって「百合である」という読みを行うことが可能になるのではないでしょうか。

 

②「百合である」という読みが可能になる判断基準は何か。

 ①の議論を踏まえると、人が何をもって「これは百合である」と判断するかは、その人が今まで「百合」とされる作品に触れる中で培ってきた「百合」観に依る、つまり人それぞれだという、身も蓋もない結論になります。

 しかし、それではあまりにもつまらないので、なぜ様々な作品が「シュレディンガーの百合」として、潜在的に「百合」として読まれうる可能性を秘めているのかを考えてみたいと思います。

 

 ここで手掛りとなるのが、安田(2016)の議論です。安田は、アイドルアニメに関する議論の中で、描写される緊密な二者の親密性に関し、以下のように言及します。

 

 「これらのプロットやイマージュはどれも「恋愛関係である」と断言できるような言明を欠いている。同性愛の偽装というにはあまりにも直接的であり、だが同性愛の表出というには実質的な裏付けを欠いている。もっとも異性愛描写も異性愛規範の描写も殆ど存在しない以上、われわれはこれらの恋愛の形象はすべて可能態であるとみなさなくてはならない。すなわち、知性は「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」と真偽を保留する判断をしなくてはならず、可能態を現実態へと飛躍させるのは想像力の領域においてでしか許されないのである」

 

 安田はこうした想像力の領域における「恋愛関係」の「読み」を、「百合の可能態」として指摘しています。この安田の議論には、1つの重要な論点と、1つの重要な見落としが含まれています。

 論点とは、女性同士の親密性の表象それ自体が、親密性の多様な読みに開かれているということです。

 やおい同人誌は男性同士の緊密な親密性を描くために、友情を恋愛に「読み替え」て表現するという作業を必要としますが、女性同士の場合は「恋愛関係である」と断言できるような言明を欠いて」いようとも、そのような緊密な親密性を親密性それ自体として描くことができるといえるでしょう(理論的根拠が薄弱ですね。許して。)

 そして安田によれば、そのような親密性の表象は、受け手の「想像力の領域」において、「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」と解釈することが可能なのだといいます。これを踏まえるならば同様に、その表象された親密性を「友情」として読むことも、「思慕」として読むことも、あるいは言語以前の親密性として読むことも可能になるわけです。

 

 見落としとは、「百合」は必ずしも恋愛関係のみを描くわけではないということです。

 安田が「百合の可能態」として語るのは「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」という読みに限定されています。しかし、これは僕が『百合姉妹』『コミック百合姫』を創刊号から持っているから分かるのですが(このまとめもいつかブログにして出したいですね)、「百合」はもちろん恋愛を一つの軸にしてこそいるものの、「友情」や「思慕」、あるいは言語以前の親密性をもその表象の対象とし、「庭園」を色とりどりの百合で染めてきました。すると自然に、そこで育った人の「百合」観も多様なものであり得、結果的に「シュレディンガーの百合」も多様なものになりうるといえます。

 

 以上の議論を強引にまとめるならば、女性同士の親密性の表象はもともと多様な「読み」に開かれうるものであり、また「百合」も同様に多様な親密性に開かれうるものであるため、親密性がいかに読まれるか×いかなる親密性が「百合」と認識されるか、によって、「これは百合である」という読みの潜在的な可能性が増大することになると考えられます。(「百合の可能態」概念の拡張)

 

 

 

 

 

3、仮説的結論

 今までの議論から、「百合」ジャンルを成り立たせる「読み」の在り方を仮説的にまとめると、以下のようになります。

 

・まず、①送り手が「百合である」と意図して描いた作品が存在し、そこでは多様な親密性が描かれている。これは送り手の発信を受け手の適切なデコードを経て、多くの受け手に「百合である」と認識される。

・次に、②送り手が必ずしも「百合である」と意図・発信していないが、女性同士の人間関係が描かれた作品が存在する。それは、ある受け手にとっては、「百合である」という発信が無いため、「百合である」とは認識されない。また、ある受け手にとっては、読みとられた女性同士の親密性が、自らの中の「百合」観に照合されることで、「これは百合である」という読みがなされる。しかし、ある受け手にとっては、読みとられた女性同士の親密性が、自らの中の「百合」観と合致しないため、「これは百合である」という読みはなされない。

・そして、①が幹として「百合」というジャンルを確固たるものにしながら、②が枝葉として「百合」というジャンルの適用範囲を拡大させていく。結果、「百合」というジャンルの総体は曖昧化する。

 

 

もちろんこの議論は推論と仮説と一部妄想で成り立っているので、これがどれくらい的を射ているのかは分かりませんが、今後のサークル活動の中で洞察を深めたいですね。

 

参考文献

藤本由香里, 2014, 「「百合」の来し方 「女どうしの愛」をマンガはどう描いてきたか?」, 『ユリイカ 平成26年12月号』, 青土社.

金田淳子, 2007, 「マンガ同人誌 解釈共同体のポリティクス」, 佐藤健二・吉見秀哉編『文化の社会学』2007、有斐閣アルマ.

小林義寛, 1999, 「テレビ・アニメのメディア・ファンダムー魔女っ子アニメの世界」, 伊藤守・藤田真文編, 『テレビジョン・ポリフォニー -番組・視聴者分析の試み』, 世界思想社.

Maser, Verena, 2015, “Beautiful and Innocent: Female Same-Sex Intimacy in the Japanese Yuri Genre”, Universität Trier, Doctoral Thesis.

永井純一, 2002, 「オタクカルチャーに見るオーディエンスの能動性」, 『ソシオロジ』, pp.109-125.田原康夫, 2020, 「「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して―」, 『身体表象』,pp.21-47.

山口誠, 2001, 「メディア(オーディエンス)」, 吉見俊哉編, 『カルチュラル・スタディーズ』, 講談社選書.

安田洋祐, 2016,「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」 『アイカツ!』『ラブライブ!』の女同士の絆」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集アイドルアニメ』

 

コミック百合姫』2011年1月号