「お姉様」の社会史(試論)

(書いた人:レニ)

 

はじめに―問題設定―

ごきげんよう。皆様は最近、お姉様にタイの歪みを指摘されておりますでしょうか。

「お姉様」と言いますと、百合に関してある程度馴染みがある皆様におかれましては、すぐに『マリア様がみてる』のことを想起なさるかと思います。そしてより造形の深い皆様におかれましてはまた、『マリア様がみてる』には戦前の少女文化のエスとの類似性があり、特に吉屋信子の『花物語』は百合文化の源流ともいわれ……といったようなことを想起なさるかと思います。実際、学術論文なんかを見ていても、『花物語』と70~90年代あたりの少女漫画と『マリア様がみてる』をはじめとした現代大衆文化を並列させて、「ほら!少女同士の親密性の物語はこうした伝統を引き継いでウンヌン」とやるような議論が結構あったりします。

 しかし個人的には、この見解はダウトです。というのも『マリア様がみてる』の作者・今野緒雪はインタビュー*1にて、執筆以前は吉屋信子エスも知らなかった、という旨を語っているからです。

 

―女子同士のお話を作られるにあたって、なにか作品を読んだりは。

今野 それが、実は読んでないんです。よく吉屋信子の『花物語』の影響について訊かれますが、読んだのは書き始めたあと。(中略)昔の女学生の「S」(Sisterhood)についても、同じく書き始めてから知りました。

 

では、『マリア様がみてる』は、どのようにして生まれたのか。同じインタビューで今野はこう語ります。

今野 若いころからの作家仲間との雑談からですね。(中略)「最近はBLがすごい。でも、男ばっかりでつまんないね。女の子がいっぱいいる小説や漫画があんまりないよね」と盛り上がったんです。「やろうよ、みんなで」「こういうシチュエーションがいいよね」と話しているなかで、私が「「お姉様、マリア様がみてますから!」って感じで……」と言っちゃった(笑)

今野 学年の違う女の子同士の関係というところは、もう話に出ていましたね。「女の子同士。親友もいいけど、お姉さまっていうのも素敵だね、かっこいいね」と盛り上がっていました」

 

ここで一つの疑問が浮かびます。なぜ戦前の少女文化を全く知らなかった今野が、戦前の少女文化の世界観を見事に引き継いだとされる『マリア様がみてる』を書けたのか。

 

本稿ではこの疑問を出発点とし、少女文化における「お姉様」―実際の姉妹ではないにも関わらず、姉妹的なものとして形成される、精神的絆―の表象を鍵として、少女文化の戦前と戦後の複雑な距離感を捉えることを試みます。

 

1、「お姉様」の戦後―1950年代:ソット目を閉じて千秋ネェサマってつぶやく―

花物語』をはじめとした戦前の少女文化、およびエスについては、他の方がブログで書いてくださっているので、そちらを参照ください。もっと詳しく知りたい方は、稲垣恭子『女学校と女学生』、今田絵里香『〈少女〉の社会史』などを参照ください。

note.com

 

そうしたエスの世界は、戦後の少女文化ではどのように変化したのか。今田(2012)*2などの研究では、戦後の少女小説雑誌においては、男女共学の開始などに伴い、男女交際の内容が取り上げられるに伴って、エスが扱われることが減少していった、ということが指摘されています。

 

ここで重要なのは、戦前的な「清く正しく美しい」少女像は、この段階ではまだ存続していた、ということです。例えば今田は、『少女の友』では1952年頃までエスの投書がみられたと指摘し、次の投書を引用しています。

蒼い透きとおった翅の美しい蝶のように記憶の上を飛びまわるのを止めない華麗な花のような名。或いは唄いやめぬオルゴオルの調べにも似ていつも耳の底に漂う美しい声。あの方の印象はそこから開いてゆくの……濡れた花みたいな水ッポイ匂い。そしてビックリする程長ァい睫毛。ソット目を閉じて千秋ネェサマってつぶやくと、アイボリーで刻んだように美しい横顔が白い花のようにゆらぐの―朱美「ダイスキダワダイスキダワ!!」って心の中で叫んじゃうのよ!(1950年9月号)

 

またこうしたエスの描写は、少女漫画(性格には少女向けの貸本漫画)にも出現していました。高橋真琴「さくら並木」がそうです。「さくら女学院」を舞台にしたエスの実践が、「桜並木ではこのようなことが毎年続けられて来たのです これからもずっと続いて行くことでしょう 世の少女たちから美しくやさしい心が失われないかぎり…………」と語られます。画像が無いのはご容赦ください。

「ああお姉さまにあいたい お姉さまの胸にすがっておもうぞんぶん泣きたい…甘えたい……」

 

まとめると、1950年代には異性との親密性が少女文化に導入され始めるが、エス/「お姉様」は未だに戦前的な少女文化と地続きのものとして少女文化の要素、また実践だったという事ができるでしょう。

 

2、「お姉様」の転換―196-70年代:いやあね少女趣味だわおねえさまなんて!―

しかし、異性との親密性がいよいよ少女文化の主流な要素として定着してくると、「恋愛」という新しい時代の波の中で、「お姉様」の表象に変化が訪れます。この旧来的少女文化から新たな少女文化への転換というのは、僕の卒論のテーマでもあり、その中で『週刊少女フレンド』1963~1972年分を閲覧しました。その中から、いくつかの例を紹介します。

 

青池保子「さらばひざ下20センチ」(1967年15号)は、「八十年の伝統をほこる、名門のミッションスクール」である「白蘭女学校」を舞台に、「明治時代の遺物みたいな」制服が女生徒たちによって改革される物語です。生徒会長である主人公は、表では名門校の伝統と格式を重んじる清く正しく美しい少女のフリをしていながら、裏では制服に不服を言い、仲間とテニスに興じ、伝統をバカにする現代っ子です。主人公は卒業式の上級生への送辞を書くのですが、その中にある「おねえさま」という文言に対して、「へっ いやあね少女趣味だわおねえさまなんて!」と言いつけます。

この作品には、戦前の少女文化と戦後の少女文化の、象徴的な転換が現れています。注目すべきは、戦前の少女文化の要素が徹底的に戯画化されている点でしょう。そもそも「八十年の伝統」と言ったって、高等女学校令の公布が1899年なので、こうした女学校が物理的に存在しえない、戦前の清く正しく美しい少女文化ステレオタイプであることは明白です。そうした伝統的な「少女」像と現代的な「少女」像を対比し、前者を戯画的に描きながら、後者が肯定されます。「おねえさま」という呼称も、ここではそうしたステレオタイプの1つとして用いられています。そして、読者が同一化すべき主人公の姿を通して、過去と現在のふたつの「少女」像の間の移行を、追体験させるのです。

 

次に、生田直親・細野みち子「造花の愛の物語」(1971年50号)を見てみます。中学生の主人公が、東京宝塚歌劇の劇場で憧れの高校生の先輩と出会い、「おねえさま……と心にさけびそのうでにしがみついたのです」と親密な関係を築きます。しかし主人公に好意を向ける男子に、「人間は男と女がむすばれるようにできてる それを女どうしでまにあわせようなんて それは女の臆病な心さ」と先輩への思慕を全否定され、その思い断念し、宝塚を見ることも辞める、という物語です。

ここでも「おねえさま」は、「宝塚」というこれまた戦前からの少女文化の要素と結びつけられながら、「(異性との)恋愛」と対立させられることで、伝統的な「少女」像と現代的な「少女」像の対比に用いられています。重要なのはそうした「おねえさま」的親密性が、「女の臆病な心」として病理化されている点です。

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これは恐らく、当時のレズビアン言説が関わっています。赤枝香奈子(2014)*3が指摘するように、1960年代後半の日本社会では、既に「エス」ではなく「レズビアン」というカテゴリーが人工に膾炙しており、それがメディアの中で逸脱的な性として表象される、ということが生じていました。少女漫画雑誌の読者投稿コーナーでも、「私は女の子が好きなのだが、おかしくないか」というような質問が散見されました。この時期、そうした言説の中で、「おねえさま」と「レズビアン」的な「逸脱」が結び付けられたのが、この作品だと考えられます。

 

ここで2点ほど付言すると、まず赤枝(2014)によれば、一般メディアの言説においてはこれ以前から既に、こうした関連付けは、「エス」と「レズ」という連想から「エス」が「レズビアン」言説の一部にとりこまれていく、という形で存在していたようです。次に雫石(2012)*4によれば、西谷祥子「あわ雪さん」(『週刊マーガレット』1972)にて、「不良のキャラクターと周囲から憧れの目で見られるおっとりとした先輩のキャラクターが、意外にも昔エスだったと明かし、お揃いのリボンを付けていたことや、華道や茶道の作法を「姉」である先輩が手ほどきしていたと話すシーンが存在する」といいます。(いずれも一次資料見確認)

 

まとめるとこの時期、「お姉様」的親密性は少女文化の中に残りつつ、また「あわ雪さん」のようにそれを地続きに引き受ける作品も存在してはいたものの、「さらばひざ下20センチ」のように「清く正しく美しい」戦前の少女文化のステレオタイプ*5の一部として描かれたり、「造花の愛の物語」のように「レズビアン」の「逸脱」といった一般メディアの言説を反映するようになったりと、現実の少女と戦前の少女文化が乖離していく様が顕著に表れるようになっていた、といえるでしょう。

 

3、「お姉様」の懐古と拡散―198-90年代:古さ新しさを超えた永遠の憧れ―

このあたりは自分でもまだ全体像を把握できていないのですが、手元の資料と先行研究から議論をつなぎ合わせていきます。具体的には、戦前の少女文化が地続きでなくなった80年代においてその精神を自覚的に引き継いだ作家・氷室冴子と、その傍らで拡散していく「お姉様」のステレオタイプなイメージ、という2つの話をします。

 

氷室冴子のジュニア小説『クララ白書』では、吉屋信子少女小説を愛読書とする主人公が登場します。彼女は「吉屋信子大先生の本にちょいちょい出てくる寄宿生活に、ほのかな、否、熱烈な憧れを抱いて」おり、「ママやパパの反対を押し切って」まで寄宿舎「クララ舎」で暮らしています。周囲からは「昔の本の読みすぎよ」とか、「アナクロもはなはだしいわよ。吉屋信子のお姉さま小説なんて」などとやっかまれますが、それでも自分を曲げず、2人の友人とともに寄宿舎生活を楽しみます。

 

氷室冴子は『クララ白書』のあとがきで、次のように語っています。

”寄宿舎”というのは、私が記憶の中から拾い上げることのできる最も古い憧れの一つだ。

今でも、寄宿舎という言葉には甘い感傷がつき纏う。それは明らかに、少女小説と少女マンガによって育まれた、私なりの少女幻想であった。

私が子供の頃、吉屋信子少女小説はすでに古いものであったのだろうが、作品世界の中で展開される少女の生活や心情は、私にとっては古さ新しさを超えた永遠の憧れであり感動だった。

 

またインタビューでは、次のように語っているといいます(一次資料見確認より嵯峨(2014)*6より孫引き)

かつての吉屋信子に代表される作家がになっていたもの―読者対象が女の子である娯楽小説を、手抜きでなく書く―という、そのことを、自分もやってみたかったからです。

 

ここからは、嵯峨(2014)が指摘するように、氷室冴子吉屋信子的な戦前の「少女小説の精神を引き継ぎ執筆する」意識を持っており、また「吉屋などの系譜を意識してその精神性に重きを置いていた」ことがわかります。

 

一方で、前節でみたように、戦前から地続きなものとしてのエスの精神は、70年代には少女文化の中ですら薄れていました。氷室はそのことに自覚的です。吉屋信子の精神が現代では「すでに古いもの」であったと語り、また登場人物に「お姉さま小説」が既に「アナクロもはなはだしい」と自己言及させます。戦前と現代の少女文化の断絶の中で吉屋信子を参照する氷室の営みは、嵯峨のいう「引き継ぎ」というよりもむしろ「懐古」ないし「復古」のようなものであるでしょう。

しかし氷室は、既に過去のものとなった吉屋信子の精神性に再び光を当てるという、ともすれば時代錯誤となりかねない営みを成し遂げ、戦後少女小説の代表ともいえる存在となりました。氷室にとって吉屋信子は、「古いもの」であると同時に「古さ新しさを超えた永遠の憧れであり感動」、すなわち戦前の少女文化の象徴であると同時に、そうした時代性を超越した普遍的存在でもありました。故に時代錯誤に陥ることなく、80年代ジュニア小説のトレンドである口語一人称態と少女漫画的なエンターテインメント性の中に、普遍化された戦前の少女文化の精神を落とし込むことに成功したのではないでしょうか。

 

 

さて、氷室冴子が戦後少女文化に吉屋信子の「お姉さま小説」の精神性をもたらしたのと同時期、全く別の震源地において「お姉さま」の存在が指摘されています。

赤枝(2010)*7は、「少女のための耽美派マガジン」を銘打つ雑誌『ALLAN』(1980~84)の投書欄「お便り回送コーナー FOR LESBIENS ONLY」、改め「百合通信」において、「一〇代の書き手が「お姉さま」を求める内容」の投書が数多く見られる、と指摘しています

「百合の経験豊かなお姉さま♡未経験の私に百合のフルコース教えて下さい」

百合族のお姉さま方♡もうすぐ16歳になる百合っ気タップリの私に熱いお手紙下さい♡」

赤枝はこれに関して、投稿者は『薔薇族』以降の語用により、レズビアンが「百合族」と呼ばれることを知っており、投書欄において「『族』のとれた百合―動詞、形容詞、副詞へと活用自在な「百合」(中略)が、ひそかに定着していったのである」と指摘します。これはこれで百合文化的には興味深いのですが、ここで論じたいのは、ここでいう「お姉さま」は、恐らく戦前の少女文化をそのまま引き受けたものではないが、しかし戦前の少女文化のステレオタイプ的なイメージに由来して用いられた言葉なのではないか、ということです。

『ALLAN』は「少女のための耽美派マガジン」と銘打たれ、また『JUNE』の一時休刊時を狙って創刊されたとされる(赤枝2010)ことから、これが所謂「少年愛」少女漫画の系譜にあることが伺えます。一次資料を当たっていないのでわかりませんが、こうした系譜と戦前の少女文化は交差しがたいように思います(萩尾望都が「トーマの心臓は少女同士にしようと思ったけどやめて男同士にした」みたいな話をどこかでしていた気がするが……源流の源流まで遡れば戦前の寄宿舎女学校にまで至るのかもしれないが、ここでは簡便のために考えないでおこう……)。しかし、なぜかここでは女性同士の親密性の実践に「お姉さま」という言葉が用いられています。

 

ここから先は推測の域を出ないのですが、前節での「お姉さま」を含む戦前の少女文化が60-70年代において過去のものとされ、そのイメージがステレオタイプなものとして使用された、という前節での流れの延長線として、80年代には「お姉さま」という言葉が、戦前の少女文化からは切り離され一人歩きしながらも戦前の少女文化のニュアンス(例えば、階級の高そうなイメージ、おしとやかなイメージ、清らかなイメージ)を残した、女性同士の親密性を示すステレオタイプな語彙として少女/女性文化(あるいは一般メディア文化?)の中に拡散していった、のではないでしょうか。このあたりは様々な一次資料を当たって検証していかなければいけませんが。

 

要するに、実際の姉妹ではないにも関わらず、姉妹的なものとして形成される、精神的絆としての「お姉さま」は、『マリア様がみてる』が登場する前にも既に一定の広がりを見せていたのであり、それを戦前の少女文化のステレオタイプなイメージの拡散で説明できるのではないか、ということです。

余談ですが、アニメ『セーラームーン』(1993)42話で、セーラーヴィーナスこと愛野美奈子が、イギリスの知り合いのことを「お姉さま」と呼んでいました。百合を感じました……というのは置いといて、やはり『マリア様がみてる』以前にも、国民的人気作に登場するくらいには通用する語彙として「お姉さま」という親密性が存在していたんですよね。

 

 

まとめると、戦前の少女文化はこの時期、既に過去のものとなりながらも、氷室冴子のような作家によって意識的に引用されていました。また戦前の少女文化の諸要素―「お姉さま」のような―はステレオタイプなイメージとして大衆文化の中に拡散していったのではないか、という推測ができます。

 

4、「お姉さま」の復活―1990-2000年代:タイと歴史が曲がっていてよ―

そうして現代に戻ってきました。吉屋信子を知らなかった今野緒雪がなぜ『マリア様がみてる』を書けたのか。推測としては、戦前の少女文化が既に過去のものとなった現代においても、戦前の少女文化を意識的に引用した作品、ないし戦前の少女文化のステレオタイプの拡散によって、かつてのエスの関係は現代においてもシミュラークルとして存在しているから、ということになるでしょうか。『マリア様がみてる』の場合には、氷室冴子のように吉屋信子を意識的に引用せずとも、大衆文化に根付く「お姉さま」的なステレオタイプとそれに伴うイメージ(女学校、ミッションスクール、お嬢様性…)に基づいて、吉屋信子的な世界観を描き出すことができたのではないか、というのが、僕の考えです。

やはり現代のポップカルチャーにおいて「お姉さま」的な女学校の表象を復活させ、形を与えたのは、『マリア様がみてる』の大きな功績と言えるでしょう。これ以前には(少なくとも90年代には)吉屋信子を彷彿とさせる形で「清く正しく美しい」女同士の親密性を主題化した作品は恐らくなく(もしかしたらあるかもしれない。情報求む)、またこれ以降には、表紙にひびき玲音を起用し、「お姉さまの初恋、私にください」のアオリを引っさげて『百合姉妹』が創刊したことは言うまでもなく、その後の百合ジャンルにおいても女学校ものが定着していることには、『マリア様がみてる』の影響力を認めざるを得ません。

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ただし、ここからすぐに「現代の百合文化は、戦前のエスが源流にある!」というのは、個人的には慎重であるべきだと思います。というのも今まで論じてきたように、そもそも『マリア様がみてる』はエスそのものではなく社会に根付いたそのステレオタイプを元にしていると思われ、エス自体も1970年前後に戦前から地続きな文化ではなくなっていると思われ、さらに現代の百合文化自体も『百合姉妹』のマーケティング戦略によって戦前のエスによる権威付けがなされてきた側面があると思われるからです。

 

最後の点に関しては、例えば「百合の花咲く7つの瞬間」というコラムでは、①として吉屋信子花物語』を挙げた後、そのまま②として山岸凉子『白い部屋のふたり』(1971)を挙げ、また『白い部屋のふたり』には「エス」に関する言及がないにもかかわらず本作が「エス漫画の金字塔」と紹介されており、本稿の2節で指摘したような戦前と戦後の少女文化の差異が批判的に検討されることなく、両者が単線的に接続されています。

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また同号のコラムでは、嶽本野ばらによる「エス」のコラムが掲載されています。嶽本は氷室冴子と同じく、小説『ミシン』(2000)などで吉屋信子をはじめとした戦前の少女文化を明確に引き継いできた作家の一人です。このコラムでは、「「エス」という乙女しか持つことの赦されぬ最高級の恋愛を復古させましょう」という宣言がなされます。

 

こうした誌面構成からは、意地悪な見方をすれば、『百合姉妹』が『マリア様がみてる』ブームにあやかりつつ、戦前の少女文化と『百合姉妹』との連続性を強調することによって、恣意的に伝統を捏造し、雑誌を権威づけているようにも読めます。

 

だから何が悪いというわけでもないんですが、問題は海外の研究者によって、こうした構築性に批判的検討がなされることもなく、先程言った「現代の百合文化は、戦前のエスが源流にある!」的な言説が再生産されていることなんですよね。だいたいそういう議論の論調って、戦前のエスを語り、70年代の『白い部屋のふたり』みたいな有名どころの少女漫画を語り、最後に『マリア様がみてる』を語って、百合ジャンルを少女文化の観点から論じる、みたいなことをするんですけど、いやそれホンマか?っていう。時代も社会的背景も異なる少女文化における女同士の親密性を描いた作品群を並べても、そこにそれを並べるだけの論理的根拠は「女同士の親密性を描いている」という共通性以上に何かあるのか?文化の連続性に関する批判的視線が向けられなければ、さもそれらが単線的に結びついているかのような誤った印象を与えてしまうぞ。『白い部屋のふたり』みたいな有名どころだけじゃなくてちゃんと一次資料に当たって「造花の愛の物語」みたいな作品を取りこぼさないようにしないといけないんじゃないか?参考文献は『百合姉妹』でええんか?マーケティング戦略に乗せられてないか?

 

 

 

というわけで話をまとめると、戦前のエスに代表される少女文化と、戦後の少女文化、そして現代の百合文化の間には、確かに影響関係があるにはあるけれど、単純に直線で繋がれているわけでもなく、価値観の転換やイメージの拡散や作家による復古を経て今に至っているのだ、ということです。

*1:「『マリア様がみてる』のまなざし―“姉妹”たちの息づく場所」,「ユリイカ 総特集 百合文化の現在」,2014

*2:今田絵里香、2012、1945~70年の少女雑誌とジェンダー京都大学グローバルCOEプログラム親密圏と公共圏の再編成をめざすアジア拠点

*3:赤枝香奈子「戦後日本における「レズビアン」カテゴリーの定着」、小山静子・赤枝香奈子・今田絵里香編『セクシュアリティの戦後史』学術出版会、2014

*4:「フィクションにおける女子高、女生徒の描かれ方の変遷~『マリア様がみてる』は何を変えたか~」、第1期藤本由香里ゼミナール卒業研究集2012 HONEY a la mode

*5:こうしたステレオタイプとしての戦前の少女文化はその後、「キャラを立たせる」ために「お嬢様言葉」を使わせる、などの形で引き継がれていきます。例としては『エースをねらえ』のお蝶夫人などが挙げられます。

*6:嵯峨景子「吉屋信子から氷室冴子少女小説と「誇り」の系譜」『ユリイカ 特集百合文化の現在』

*7:赤枝香奈子、「百合」、 斎藤光,・澁谷知美、 三橋順子井上章一編『性的なことば』、講談社現代新書