【劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト】舞台少女の熱量と成長

(書いた人:レニ)(多分ネタバレしかない)

 

すごいものを見てきました……『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』……

 僕も遅ればせながら先程スタァライトされてきました。サークル的にはアニメ鑑賞会はまだなのでフライングスタァライトになりますが、何かとんでもないものを目撃したので、見た直後のフレッシュな心のままに、少女達の熱さに焼き殺された心のままに、レビューを書き遺しておきたいと思います。とはいえ個別のキャラやシーンの良さみの深さをいちいち語るには、この余白はそれを書くには狭すぎるので、ここでは舞台少女の「熱量」と「成長」という2つのトピックについて書いていきます。

 

1、舞台少女のレヴューはなぜ「熱い」のか?

 タイトルにも冠されている、本作の最大の見所「レヴュー」。舞台少女たちの熱い想いがぶつかり合うその熱量に、僕の心も劇中のキリンと同様に焼き殺されました。なぜ「レヴュー」はこれほどまでに「熱く」、見た者の心を動かすのか?こういうことを分析するのは野暮だとは百も承知ですが、自分なりに3つの要因を考えてみました。

 ①「ライバル」という関係性

 ②「舞台」という設定

 ③「通過儀礼」という位置づけ

 

1,1 「ライバル」という関係性

 「顔の良い女の子が全力で競い合うのは良い」というのは皆さん『ウマ娘』で予習済みとは思いますが、この物語の舞台少女たちも、「トップスターになる」という同一の目標を目指し、時に助け合い、時に戦いあい、切磋琢磨しながら成長していく「ライバル」として表象されます。男同士のライバル関係は数あれど、女の子同士のこういうライバル関係って独特の良さがありますよね……。この「良さ」って何なんだろうと考えたとき、自分の中で近い感覚ってスポーツ少女漫画なんですね。『サインはV!』『エースをねらえ!』みたいな。

 これを手掛かりに考えていくと、ここで表象されているのが「極度に純化されたホモソーシャリティ」であることに気付きます。「ホモソーシャルな絆」は現実の世界では同性愛嫌悪と女性嫌悪を内包した男同士の絆とされがちですが(セジウィックとかの議論)、少女達を主人公にしたスポーツ少女漫画ではそういう現実の社会規範をすっとばして、純化した女性同士のホモソーシャリティによる親密性を描き出すことができ、それが「ライバル」という関係性に結実するわけです。同性だけの空間で、同じ目標を目指し、助け合い競い合い認め合い求め合いながら、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話する、「ライバル」という独特の親密性……。そして、これってそのまま「レヴュー」なんですよね。スポーツ、レヴュー、いずれも熱いバトルの中で、「ライバル」という、極度に純化されたホモソーシャリティに支えられた少女同士の熱い絆を描くことができる設定なのです。映画の中でも真矢とクロディーヌが愛を告白しあいながら戦っていてあああああああ~~~~となりました。

 

余談ですが先日、「バキは百合」という引用ツイートがたくさんきました。これもホモソーシャリティと親密性の結びつきの例でしょうか。

https://twitter.com/KU_yuribunken/status/1414870424316301314?s=20

 

1,2 「舞台」という設定

 この「レヴュー」の熱量をさらに増幅させるのが、それが「舞台」であるということです。これには「言葉で演じる」ことと「舞台装置を出す」ことの2つの側面があります。

 まず「言葉で演じる」ことについて。唐突ですがここでHIPHOPの話をします。僕は今は無き『フリースタイルダンジョン』という番組が好きだったのですが、好きなMCバトルの1つに般若vsR指定があります。今まで番組のリーダーを張っていた般若がトップを退き、後輩のR指定にその座を明け渡すという、いわば襲名式を、MCバトルで行ったんですよね。それがまあ熱くて、互いのリスペクトや感謝がぶつかり合って出演者全員感動で号泣、みたいな。このバトルに関して、審査員だったラッパーのKENTHE390が「素の言葉で言うとめちゃめちゃクサくて聞いてられないけど、HOPHOPに昇華させることでその熱量が全部伝わってくる」みたいなコメントをするんです。んで話を戻すと、映画のレビューの場面を見てるとき、僕の脳裏でずっと般若vsR指定がダブってました。日常の言語ではどうしても扱えないような感情の重さの会話でも、舞台のセリフに昇華させることで、その熱量を全部伝えることができるし、その中で本音がマジトーンで吐き出されると、コントラストで一層感情が強調される。個人的には香子と双葉のレヴューが好きです。

 次に「舞台装置を出す」ことについて。レヴューでは舞台少女の感情に応じて象徴的な舞台装置が出てきて、その熱量を最適な形で演出し、増幅させていきます。しかも謎空間で行われているから何でもアリ。そういった舞台装置の使い方がとても印象的でした。「通過儀礼」としての決闘にイマジナリーな領域を設定し、それに応じた舞台装置でそれを彩るのは、おそらく「ウテナ」のオマージュ(決闘ごとに名前があり、胸の薔薇を散らした方が勝者で、最終勝者が世界を革命する)で、最近だと「シンエヴァ」もやってた手法ですが、にしても映像技術の凄さと発想のぶっとび方で、レヴューを極めて緊張感と躍動感と面白さあふれるものにしていました。レヴュースタァライト半端ないって。突然デコトラで突進するとか、オリンピック始めるとか、東京タワー吹きとばすとか、そんなんできひんやん、普通。

1,3 「通過儀礼」という位置づけ

 「レヴュー」の中で舞台少女たちは、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話し、その中で自他を見つめ直していきます。要するに「レヴュー」とは舞台少女にとって、成長するための通過儀礼なわけです。

 「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは何か。「成長」は近代以降、様々な物語の主題となってきました。しかしそれは、ビルドゥングスロマンの古典であるゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が理想的な「市民」として主体を確立する物語であったように、主として男性的なテーマとして語られてきた側面は否めません。一方で「少女」についてはどうか。そもそも「少女」というカテゴリーが登場したのは明治期の女学生の登場に伴うものですが、戦前において「少女」の「成長」とは、良妻賢母規範を守らなくてもよい「女学校」というモラトリアムを離れ、結婚して「妻」となることでした。また戦後になると、主に少女漫画の世界で、少女の成長とは恋愛を経験して「おとなになる」ことを意味するようになっていきます。「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは、「恋愛」や「結婚」といった男性中心主義的ジェンダー秩序に取り込まれ客体化されることとして表象されてきたといえます。

 しかし、「舞台少女」にとっての「通過儀礼」とは「レヴュー」であり、「成長」とは「トップスターになること」、つまり「理想的な『スター』として主体を確立すること」にあります。「レヴュー」という通過儀礼を通し、客体としてではなく、主体として自己実現すること。ここに僕は、熱いエンパワメントのメッセージを感じました。僕は男性中心主義的ジェンダー秩序に対して、「そうではないオルタナティブの可能性」を「百合」や「女同士の親密性」に求めているところがあるので、こういう物語が好きなんですよね……。

(最もそれが舞台女優として「見られる」=客体化される存在になることである意味は考えないといけないと思いますが、まだ上手く整理できていません)

 

 というわけで、レヴューの場面が熱かった、という感想でした。

 

2、舞台少女の「成長」とは何か

  前章の最後で「舞台少女」の「成長」の話をしましたが、「スタァライト」における「成長」の描写がすごく凝っていて、というか凝り過ぎていて、まだ理解が追い付いていないのですが……。自分なりの解釈をしたいと思います。

 映画は最初、トマトが炸裂するシーンから始まります。その後も至るところでトマトをはじめとした作物が象徴的な使われ方をされます。キリンが野菜だったり。あるいは序盤の「皆殺しのレヴュー」で流れた赤い液体は「甘い」らしいので、おそらくこれもトマト?ジュースでしょう。そしてこのトマトが、この物語における「成長」のメタファーっぽいな~と思いながら見ていました。成熟したトマト、成熟した舞台少女……。よくわからない。

 

【以下妄想】

 「再生産」といえばマルクスですね。マルクスによれば主体は労働力として自己呈示し剰余価値を生み出すことで資本を再生産しますが、その剰余価値は主体には手の届かないものとなり、資本主義のシステムを再生産します。この物語でいえば主体は少女たち、自己呈示は舞台少女、剰余価値が「きらめき」、そして剰余価値を享受しシステムを回していたのがキリンです。「アタシ再生産」とは「アタシが(労働力としてシステムを)再生産」することだったんですね。そして舞台少女が産み出し、システムに総取りされた価値の象徴が、キリンが作物から構成されていたように、トマトなわけです。しかし舞台少女として歩き出すことを決意した少女達は、成長を受け入れ、キリンは舞台少女の前で散ります。資本家の転覆、奪われた価値の奪還────少女革命

【妄想おわり】

 

 しかし成長するということは、過去の自分から変容すること、過去の自分を殺すことでもあります。「皆殺しのレヴュー」では、将来の進路を決めた舞台少女たちが殺されて血の雨=トマトジュース=成長のメタファー……を浴び、その後自分の死体と向き合うことで「通過儀礼」としてのレヴューを闘いました。また主人公の愛城華恋も最後のレヴューに赴く際、ジェット噴射で過去の自分たちの姿に決別していました。過去の自分と決別しながら、人生の次の舞台へと向かわねばならない。僕は思春期の少女が自分を殺し続ける冬虫カイコ先生の短編「西に沈む」を思い浮かべながら見ていました。

 

 そしてそれは、時に恐怖を伴うものでもあります。唐突すぎるほど唐突に始まる「皆殺しのレヴュー」のショッキングさ、グロテスクなほど異形と化した作物キリン、まひるとひかりのレヴューにおけるサイケデリックな演出……それらは「成長」に伴う舞台少女たちの不安を、観客である我々に追体験させるものであるように感じられました。あと、映画では今まであまり描かれなかった裏方の女の子が苦悩する場面があったのですが、個人的にはとても胸に刺さりました……。成長することへの不安。重圧。それらは中心となる舞台少女だけでなく、舞台に関わるすべての少女たちが(あるいは我々も)向き合っている、向き合わねばならないのだ、と。


 最後に、この物語の「成長」では、「共にあること」が否定されます。星見純那と大場ななが最後、T字の両端の輝きへと向かった場面に象徴的なように、それぞれのレヴューの果てに、舞台少女たちは決別し、別々の道を歩みます。あるいはひかりと「共にあること」を選択した華恋は死を経験し、その後ひかりとのレヴューで二人の約束の象徴である手紙は燃え、東京タワーは崩れ、華恋は自分だけの舞台=自分だけの人生に進むことを決意します。こういう物語って珍しいというか、今までの女女物語では「共にあること」をこそ志向するものが中心だったと思うんですよね。でもこの物語では、舞台少女たちがそれぞれ自分だけで次の舞台へ羽ばたく。繭の中で一つに溶け合っていた蛹が、蝶へと姿を変えるように……。

 

 舞台少女における「成長」。それは、過去の自分の「再・清算」を繰り返しながら、次のライフステージへと、己の力で羽ばたくこと。そうやって必死に生きろよ、というメッセージを感じました。無論このような(僕の勝手に解釈した)メッセージを、ネオリベ的主体とかガンバリズムの無批判な受容に繋がりうるものではあります(Twitterで見た)。しかしやはり僕は、この物語の持つエンパワメントの側面を高く評価したいと思います。あと僕、愛は重ければ重いほど良いので……。重い愛の想い合い、最高でした……。