【感想ブログ】『ユリ熊嵐』とは何だったのか(1~9話)

(書いた人:レニ)

 

 オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたら、何故か美味しかった。そんな気持ちでした。

 

 今日の鑑賞会では、『ユリ熊嵐』1~9話を見ました。全員の頭にハテナが浮かんでいました。透明な嵐とは何か、断絶の壁とは何か、ユリ裁判とは何か、全く語られないままに物語は進み、何やら『ロミオとジュリエット』的なサムシングが展開されていることは分かるが、具体的な内容はよく分からず、しかし面白い。そんな感じでした。まだ9話しか見ていませんが、このよく分からなさが新鮮なうちに、『ユリ熊嵐』とは何だったのか、自分なりに考えてみたいと思い、キーボードを叩いています。

 思うに『ユリ熊嵐』とは、親密性に伴う情熱と、それを「同性愛的なもの」/「友情的なもの」に分断する社会規範への疑義の物語だったのではないでしょうか。

 

 物語の中で、熊は人を「スキ」になって食べようとし(この「食べる」行為に性的な含意があることは言うまでもないと思います)、人は熊を他者として排除しようとします。人と熊の間にはいつしか「断絶の壁」が立ちはだかり、熊は人に化けて「好き」を叶えようとし、人は危険因子を「透明な嵐」によって取り除き、自分たちが「友達」であることを確認する。

 「透明な嵐」のモチーフは、その場面でしばしば「空気を読め」という命令が言及され、またスマホが象徴的に演出されるように、直接的には情報化する社会の中で真綿のように若者の首を絞める同調圧力でしょう。しかしここで問題にすべきは、「透明な嵐」はいったい「何」を抑圧しようとしているのか、という点です。

 このとき、「透明な嵐」に伴って排除される人物が、いずれも同性間の親密性を達成しようとする人物であることに気づきます。純花、紅羽、そして熊である銀子とるる……。ここから想起されることは、以下です。「透明な嵐」とは、親密性の在り方を規定する、異性愛規範のことではないか?

 

 

 「どうして、同性との友情をあとまわしにして、異性と恋をしたり繁殖したりするよう勧めるんだろう。」「他者に対する感情を、「友情」や「恋」といった一言ですっぱり分類できるほど、ひとの心は単純にできていない。」(三浦しをん,2010,百合姫vol21)

 

 

 この社会は、親密性に友情とか恋愛とか名前を付け、それに伴う規範性を課そうとするようにできています。古くはセジウィック『男同士の絆』、より理論的には東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』などが語るように。その軸には異性愛があり、同性間の過剰な親密性は「同性愛」と自他に認識され、抑圧されてしまいます。

 このことを考えると、異質な他者を同調圧力によって排除し、それによって自分たちが「友達」であることを確認する「透明な嵐」が、過剰に見える同性間の親密性を「同性愛」だと認定してみせ、それを確認しあうそぶりによって、自らが「異性愛者」なのだと互いに証明する、異性愛規範の見えない圧力が働く現実世界で良く見る光景とパラレルであるように見えてきます。

 

 「透明な嵐」がこうした、ミクロレベルによる親密性の分断とその規範性の圧力、のメタファーだとすれば、物語世界において人と熊の世界を分ける「断絶の壁」とは、「他者に対する感情を「友情」や「恋」といった一言ですっぱり分類」することを強要する、親密性を巡る社会規範そのもののメタファーといえるでしょう。親密性を自明に分節する側にいる「人間」にとって、親密性の分節の向こう側にいる「熊」は「他者」であり、故に「他者」を排除することによって、「我々」意識-親密性のオキテを守る「友達」同士である―ことを確認するのです。

 この親密性の分節がもたらす抑圧は、外部からの同調圧力としてのみならず、内面化されたものとしても、人々を捉えます。それは本作のヒロインである紅羽の中によく表れています。何故、幼少期の紅羽は熊である銀子のことを忘れてしまったのか。それは親密性の分節を社会化により獲得し大人になっていくこと、ボーヴォワール的に言えば「人は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」ということの象徴にほかなりません。何故、紅羽は熊を撃ち殺し続けるのか。それは親密性の分節の「向こう側」の、無意識的な抑圧の象徴にほかなりません。

 

 ここで、本作で示される親密性の形態に注目してみます。『ユリ熊嵐』では、純花と紅羽、あるいは熊たちの親密性の形も、「透明な嵐」によって結ばれたクラス集団の空虚な親密性の形も、同じ「友達」として言及されています。前者の親密性は、見ていて「それは恋じゃないんか……?」と思うような場面でも、一貫して「友達」という言葉が用いられており、恐らく意図的にこのようにされているのだと思います。つまり、一見質的に異なる親密性の形態を、あえて同じ「友達」という言葉で名指してみせることによって、我々の自明視している親密性の分節が実は恣意的に構築されたものにすぎないことを暴き出しているのです。

  

 

 前者の「友達」と後者の「友達」は、しかし本作では明確に区別されています。それは、前者には「スキ」という情熱的感情が伴う、ということです。そして本作は、この情熱について、ギデンズが語る2つの面を的確に切り取っています。

 一つ目は、ヨーロッパ由来のロマンティック・ラブの理想が普遍化した現代社会において、このような情熱は異性愛のものとして規範化されている、ということです。先程まで異性愛規範と親密性の分節について語ってきましたが、「断絶の壁」の一方の人間-親密性の分節を内面化・同調圧力化した人間-にとって、情熱的な親密性を同性間に求めることはできません。「断絶の壁」の他方の熊、および人間側で抑圧された人間のみが、「スキ」という情熱的な親密性を同性間と持つことができるのです。そして前者の人間関係の空虚さを描き、後者の人間(含む熊)関係の、咲き誇る百合の花に象徴される生のエネルギーを強調することによって、異性愛規範が我々にもたらす限界を批判的に捉えているといえます。

 二つ目は、こうした情熱的感情は、社会的逸脱をもたらすほどの危険性を孕むということです。もちろん人間関係は根本的には暴力なのですが、こと情熱的感情に関して本作では、「熊が人間を食べる」と「熊が人間をスキになる」が表裏一体のものであることによって、この側面を切り取っています。また人一倍欲望に忠実であり、9話最後で主人公を暴走させる蜜子というキャラの在り様や、「スキ」な人への嫉妬のあまり紅羽を食べる計画を綿密に練るユリーカの姿には、この情熱的感情の裏側としての危険な側面を象徴しているように思います。百合の影として浮かび上がる鳩がユリーカのモチーフになっているの、上手いです。

 

 

 以上、長々と書いてきましたが、整理すると次のようになるでしょうか。「『ユリ熊嵐』で描かれているのは、異性愛規範に沿うように人々の親密性を分節する社会規範と、それにより「外部」化された同性間の情熱的感情の行方である」。もちろん多分に(というかほとんど?)自分の妄想の産物ですし、ユリ裁判のあの3人とか、「ユリ、承認!」とは何だったのかなどまだまだ分からない部分は有りますが(「承認」といえばナンシー・フレイザー『再配分か承認か?』ですね。やっぱり社会的文脈じゃないか!)、あと3話でどのように物語が結ばれるのか、楽しみです。