「お姉様」の社会史(試論)

(書いた人:レニ)

 

はじめに―問題設定―

ごきげんよう。皆様は最近、お姉様にタイの歪みを指摘されておりますでしょうか。

「お姉様」と言いますと、百合に関してある程度馴染みがある皆様におかれましては、すぐに『マリア様がみてる』のことを想起なさるかと思います。そしてより造形の深い皆様におかれましてはまた、『マリア様がみてる』には戦前の少女文化のエスとの類似性があり、特に吉屋信子の『花物語』は百合文化の源流ともいわれ……といったようなことを想起なさるかと思います。実際、学術論文なんかを見ていても、『花物語』と70~90年代あたりの少女漫画と『マリア様がみてる』をはじめとした現代大衆文化を並列させて、「ほら!少女同士の親密性の物語はこうした伝統を引き継いでウンヌン」とやるような議論が結構あったりします。

 しかし個人的には、この見解はダウトです。というのも『マリア様がみてる』の作者・今野緒雪はインタビュー*1にて、執筆以前は吉屋信子エスも知らなかった、という旨を語っているからです。

 

―女子同士のお話を作られるにあたって、なにか作品を読んだりは。

今野 それが、実は読んでないんです。よく吉屋信子の『花物語』の影響について訊かれますが、読んだのは書き始めたあと。(中略)昔の女学生の「S」(Sisterhood)についても、同じく書き始めてから知りました。

 

では、『マリア様がみてる』は、どのようにして生まれたのか。同じインタビューで今野はこう語ります。

今野 若いころからの作家仲間との雑談からですね。(中略)「最近はBLがすごい。でも、男ばっかりでつまんないね。女の子がいっぱいいる小説や漫画があんまりないよね」と盛り上がったんです。「やろうよ、みんなで」「こういうシチュエーションがいいよね」と話しているなかで、私が「「お姉様、マリア様がみてますから!」って感じで……」と言っちゃった(笑)

今野 学年の違う女の子同士の関係というところは、もう話に出ていましたね。「女の子同士。親友もいいけど、お姉さまっていうのも素敵だね、かっこいいね」と盛り上がっていました」

 

ここで一つの疑問が浮かびます。なぜ戦前の少女文化を全く知らなかった今野が、戦前の少女文化の世界観を見事に引き継いだとされる『マリア様がみてる』を書けたのか。

 

本稿ではこの疑問を出発点とし、少女文化における「お姉様」―実際の姉妹ではないにも関わらず、姉妹的なものとして形成される、精神的絆―の表象を鍵として、少女文化の戦前と戦後の複雑な距離感を捉えることを試みます。

 

1、「お姉様」の戦後―1950年代:ソット目を閉じて千秋ネェサマってつぶやく―

花物語』をはじめとした戦前の少女文化、およびエスについては、他の方がブログで書いてくださっているので、そちらを参照ください。もっと詳しく知りたい方は、稲垣恭子『女学校と女学生』、今田絵里香『〈少女〉の社会史』などを参照ください。

note.com

 

そうしたエスの世界は、戦後の少女文化ではどのように変化したのか。今田(2012)*2などの研究では、戦後の少女小説雑誌においては、男女共学の開始などに伴い、男女交際の内容が取り上げられるに伴って、エスが扱われることが減少していった、ということが指摘されています。

 

ここで重要なのは、戦前的な「清く正しく美しい」少女像は、この段階ではまだ存続していた、ということです。例えば今田は、『少女の友』では1952年頃までエスの投書がみられたと指摘し、次の投書を引用しています。

蒼い透きとおった翅の美しい蝶のように記憶の上を飛びまわるのを止めない華麗な花のような名。或いは唄いやめぬオルゴオルの調べにも似ていつも耳の底に漂う美しい声。あの方の印象はそこから開いてゆくの……濡れた花みたいな水ッポイ匂い。そしてビックリする程長ァい睫毛。ソット目を閉じて千秋ネェサマってつぶやくと、アイボリーで刻んだように美しい横顔が白い花のようにゆらぐの―朱美「ダイスキダワダイスキダワ!!」って心の中で叫んじゃうのよ!(1950年9月号)

 

またこうしたエスの描写は、少女漫画(性格には少女向けの貸本漫画)にも出現していました。高橋真琴「さくら並木」がそうです。「さくら女学院」を舞台にしたエスの実践が、「桜並木ではこのようなことが毎年続けられて来たのです これからもずっと続いて行くことでしょう 世の少女たちから美しくやさしい心が失われないかぎり…………」と語られます。画像が無いのはご容赦ください。

「ああお姉さまにあいたい お姉さまの胸にすがっておもうぞんぶん泣きたい…甘えたい……」

 

まとめると、1950年代には異性との親密性が少女文化に導入され始めるが、エス/「お姉様」は未だに戦前的な少女文化と地続きのものとして少女文化の要素、また実践だったという事ができるでしょう。

 

2、「お姉様」の転換―196-70年代:いやあね少女趣味だわおねえさまなんて!―

しかし、異性との親密性がいよいよ少女文化の主流な要素として定着してくると、「恋愛」という新しい時代の波の中で、「お姉様」の表象に変化が訪れます。この旧来的少女文化から新たな少女文化への転換というのは、僕の卒論のテーマでもあり、その中で『週刊少女フレンド』1963~1972年分を閲覧しました。その中から、いくつかの例を紹介します。

 

青池保子「さらばひざ下20センチ」(1967年15号)は、「八十年の伝統をほこる、名門のミッションスクール」である「白蘭女学校」を舞台に、「明治時代の遺物みたいな」制服が女生徒たちによって改革される物語です。生徒会長である主人公は、表では名門校の伝統と格式を重んじる清く正しく美しい少女のフリをしていながら、裏では制服に不服を言い、仲間とテニスに興じ、伝統をバカにする現代っ子です。主人公は卒業式の上級生への送辞を書くのですが、その中にある「おねえさま」という文言に対して、「へっ いやあね少女趣味だわおねえさまなんて!」と言いつけます。

この作品には、戦前の少女文化と戦後の少女文化の、象徴的な転換が現れています。注目すべきは、戦前の少女文化の要素が徹底的に戯画化されている点でしょう。そもそも「八十年の伝統」と言ったって、高等女学校令の公布が1899年なので、こうした女学校が物理的に存在しえない、戦前の清く正しく美しい少女文化ステレオタイプであることは明白です。そうした伝統的な「少女」像と現代的な「少女」像を対比し、前者を戯画的に描きながら、後者が肯定されます。「おねえさま」という呼称も、ここではそうしたステレオタイプの1つとして用いられています。そして、読者が同一化すべき主人公の姿を通して、過去と現在のふたつの「少女」像の間の移行を、追体験させるのです。

 

次に、生田直親・細野みち子「造花の愛の物語」(1971年50号)を見てみます。中学生の主人公が、東京宝塚歌劇の劇場で憧れの高校生の先輩と出会い、「おねえさま……と心にさけびそのうでにしがみついたのです」と親密な関係を築きます。しかし主人公に好意を向ける男子に、「人間は男と女がむすばれるようにできてる それを女どうしでまにあわせようなんて それは女の臆病な心さ」と先輩への思慕を全否定され、その思い断念し、宝塚を見ることも辞める、という物語です。

ここでも「おねえさま」は、「宝塚」というこれまた戦前からの少女文化の要素と結びつけられながら、「(異性との)恋愛」と対立させられることで、伝統的な「少女」像と現代的な「少女」像の対比に用いられています。重要なのはそうした「おねえさま」的親密性が、「女の臆病な心」として病理化されている点です。

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これは恐らく、当時のレズビアン言説が関わっています。赤枝香奈子(2014)*3が指摘するように、1960年代後半の日本社会では、既に「エス」ではなく「レズビアン」というカテゴリーが人工に膾炙しており、それがメディアの中で逸脱的な性として表象される、ということが生じていました。少女漫画雑誌の読者投稿コーナーでも、「私は女の子が好きなのだが、おかしくないか」というような質問が散見されました。この時期、そうした言説の中で、「おねえさま」と「レズビアン」的な「逸脱」が結び付けられたのが、この作品だと考えられます。

 

ここで2点ほど付言すると、まず赤枝(2014)によれば、一般メディアの言説においてはこれ以前から既に、こうした関連付けは、「エス」と「レズ」という連想から「エス」が「レズビアン」言説の一部にとりこまれていく、という形で存在していたようです。次に雫石(2012)*4によれば、西谷祥子「あわ雪さん」(『週刊マーガレット』1972)にて、「不良のキャラクターと周囲から憧れの目で見られるおっとりとした先輩のキャラクターが、意外にも昔エスだったと明かし、お揃いのリボンを付けていたことや、華道や茶道の作法を「姉」である先輩が手ほどきしていたと話すシーンが存在する」といいます。(いずれも一次資料見確認)

 

まとめるとこの時期、「お姉様」的親密性は少女文化の中に残りつつ、また「あわ雪さん」のようにそれを地続きに引き受ける作品も存在してはいたものの、「さらばひざ下20センチ」のように「清く正しく美しい」戦前の少女文化のステレオタイプ*5の一部として描かれたり、「造花の愛の物語」のように「レズビアン」の「逸脱」といった一般メディアの言説を反映するようになったりと、現実の少女と戦前の少女文化が乖離していく様が顕著に表れるようになっていた、といえるでしょう。

 

3、「お姉様」の懐古と拡散―198-90年代:古さ新しさを超えた永遠の憧れ―

このあたりは自分でもまだ全体像を把握できていないのですが、手元の資料と先行研究から議論をつなぎ合わせていきます。具体的には、戦前の少女文化が地続きでなくなった80年代においてその精神を自覚的に引き継いだ作家・氷室冴子と、その傍らで拡散していく「お姉様」のステレオタイプなイメージ、という2つの話をします。

 

氷室冴子のジュニア小説『クララ白書』では、吉屋信子少女小説を愛読書とする主人公が登場します。彼女は「吉屋信子大先生の本にちょいちょい出てくる寄宿生活に、ほのかな、否、熱烈な憧れを抱いて」おり、「ママやパパの反対を押し切って」まで寄宿舎「クララ舎」で暮らしています。周囲からは「昔の本の読みすぎよ」とか、「アナクロもはなはだしいわよ。吉屋信子のお姉さま小説なんて」などとやっかまれますが、それでも自分を曲げず、2人の友人とともに寄宿舎生活を楽しみます。

 

氷室冴子は『クララ白書』のあとがきで、次のように語っています。

”寄宿舎”というのは、私が記憶の中から拾い上げることのできる最も古い憧れの一つだ。

今でも、寄宿舎という言葉には甘い感傷がつき纏う。それは明らかに、少女小説と少女マンガによって育まれた、私なりの少女幻想であった。

私が子供の頃、吉屋信子少女小説はすでに古いものであったのだろうが、作品世界の中で展開される少女の生活や心情は、私にとっては古さ新しさを超えた永遠の憧れであり感動だった。

 

またインタビューでは、次のように語っているといいます(一次資料見確認より嵯峨(2014)*6より孫引き)

かつての吉屋信子に代表される作家がになっていたもの―読者対象が女の子である娯楽小説を、手抜きでなく書く―という、そのことを、自分もやってみたかったからです。

 

ここからは、嵯峨(2014)が指摘するように、氷室冴子吉屋信子的な戦前の「少女小説の精神を引き継ぎ執筆する」意識を持っており、また「吉屋などの系譜を意識してその精神性に重きを置いていた」ことがわかります。

 

一方で、前節でみたように、戦前から地続きなものとしてのエスの精神は、70年代には少女文化の中ですら薄れていました。氷室はそのことに自覚的です。吉屋信子の精神が現代では「すでに古いもの」であったと語り、また登場人物に「お姉さま小説」が既に「アナクロもはなはだしい」と自己言及させます。戦前と現代の少女文化の断絶の中で吉屋信子を参照する氷室の営みは、嵯峨のいう「引き継ぎ」というよりもむしろ「懐古」ないし「復古」のようなものであるでしょう。

しかし氷室は、既に過去のものとなった吉屋信子の精神性に再び光を当てるという、ともすれば時代錯誤となりかねない営みを成し遂げ、戦後少女小説の代表ともいえる存在となりました。氷室にとって吉屋信子は、「古いもの」であると同時に「古さ新しさを超えた永遠の憧れであり感動」、すなわち戦前の少女文化の象徴であると同時に、そうした時代性を超越した普遍的存在でもありました。故に時代錯誤に陥ることなく、80年代ジュニア小説のトレンドである口語一人称態と少女漫画的なエンターテインメント性の中に、普遍化された戦前の少女文化の精神を落とし込むことに成功したのではないでしょうか。

 

 

さて、氷室冴子が戦後少女文化に吉屋信子の「お姉さま小説」の精神性をもたらしたのと同時期、全く別の震源地において「お姉さま」の存在が指摘されています。

赤枝(2010)*7は、「少女のための耽美派マガジン」を銘打つ雑誌『ALLAN』(1980~84)の投書欄「お便り回送コーナー FOR LESBIENS ONLY」、改め「百合通信」において、「一〇代の書き手が「お姉さま」を求める内容」の投書が数多く見られる、と指摘しています

「百合の経験豊かなお姉さま♡未経験の私に百合のフルコース教えて下さい」

百合族のお姉さま方♡もうすぐ16歳になる百合っ気タップリの私に熱いお手紙下さい♡」

赤枝はこれに関して、投稿者は『薔薇族』以降の語用により、レズビアンが「百合族」と呼ばれることを知っており、投書欄において「『族』のとれた百合―動詞、形容詞、副詞へと活用自在な「百合」(中略)が、ひそかに定着していったのである」と指摘します。これはこれで百合文化的には興味深いのですが、ここで論じたいのは、ここでいう「お姉さま」は、恐らく戦前の少女文化をそのまま引き受けたものではないが、しかし戦前の少女文化のステレオタイプ的なイメージに由来して用いられた言葉なのではないか、ということです。

『ALLAN』は「少女のための耽美派マガジン」と銘打たれ、また『JUNE』の一時休刊時を狙って創刊されたとされる(赤枝2010)ことから、これが所謂「少年愛」少女漫画の系譜にあることが伺えます。一次資料を当たっていないのでわかりませんが、こうした系譜と戦前の少女文化は交差しがたいように思います(萩尾望都が「トーマの心臓は少女同士にしようと思ったけどやめて男同士にした」みたいな話をどこかでしていた気がするが……源流の源流まで遡れば戦前の寄宿舎女学校にまで至るのかもしれないが、ここでは簡便のために考えないでおこう……)。しかし、なぜかここでは女性同士の親密性の実践に「お姉さま」という言葉が用いられています。

 

ここから先は推測の域を出ないのですが、前節での「お姉さま」を含む戦前の少女文化が60-70年代において過去のものとされ、そのイメージがステレオタイプなものとして使用された、という前節での流れの延長線として、80年代には「お姉さま」という言葉が、戦前の少女文化からは切り離され一人歩きしながらも戦前の少女文化のニュアンス(例えば、階級の高そうなイメージ、おしとやかなイメージ、清らかなイメージ)を残した、女性同士の親密性を示すステレオタイプな語彙として少女/女性文化(あるいは一般メディア文化?)の中に拡散していった、のではないでしょうか。このあたりは様々な一次資料を当たって検証していかなければいけませんが。

 

要するに、実際の姉妹ではないにも関わらず、姉妹的なものとして形成される、精神的絆としての「お姉さま」は、『マリア様がみてる』が登場する前にも既に一定の広がりを見せていたのであり、それを戦前の少女文化のステレオタイプなイメージの拡散で説明できるのではないか、ということです。

余談ですが、アニメ『セーラームーン』(1993)42話で、セーラーヴィーナスこと愛野美奈子が、イギリスの知り合いのことを「お姉さま」と呼んでいました。百合を感じました……というのは置いといて、やはり『マリア様がみてる』以前にも、国民的人気作に登場するくらいには通用する語彙として「お姉さま」という親密性が存在していたんですよね。

 

 

まとめると、戦前の少女文化はこの時期、既に過去のものとなりながらも、氷室冴子のような作家によって意識的に引用されていました。また戦前の少女文化の諸要素―「お姉さま」のような―はステレオタイプなイメージとして大衆文化の中に拡散していったのではないか、という推測ができます。

 

4、「お姉さま」の復活―1990-2000年代:タイと歴史が曲がっていてよ―

そうして現代に戻ってきました。吉屋信子を知らなかった今野緒雪がなぜ『マリア様がみてる』を書けたのか。推測としては、戦前の少女文化が既に過去のものとなった現代においても、戦前の少女文化を意識的に引用した作品、ないし戦前の少女文化のステレオタイプの拡散によって、かつてのエスの関係は現代においてもシミュラークルとして存在しているから、ということになるでしょうか。『マリア様がみてる』の場合には、氷室冴子のように吉屋信子を意識的に引用せずとも、大衆文化に根付く「お姉さま」的なステレオタイプとそれに伴うイメージ(女学校、ミッションスクール、お嬢様性…)に基づいて、吉屋信子的な世界観を描き出すことができたのではないか、というのが、僕の考えです。

やはり現代のポップカルチャーにおいて「お姉さま」的な女学校の表象を復活させ、形を与えたのは、『マリア様がみてる』の大きな功績と言えるでしょう。これ以前には(少なくとも90年代には)吉屋信子を彷彿とさせる形で「清く正しく美しい」女同士の親密性を主題化した作品は恐らくなく(もしかしたらあるかもしれない。情報求む)、またこれ以降には、表紙にひびき玲音を起用し、「お姉さまの初恋、私にください」のアオリを引っさげて『百合姉妹』が創刊したことは言うまでもなく、その後の百合ジャンルにおいても女学校ものが定着していることには、『マリア様がみてる』の影響力を認めざるを得ません。

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ただし、ここからすぐに「現代の百合文化は、戦前のエスが源流にある!」というのは、個人的には慎重であるべきだと思います。というのも今まで論じてきたように、そもそも『マリア様がみてる』はエスそのものではなく社会に根付いたそのステレオタイプを元にしていると思われ、エス自体も1970年前後に戦前から地続きな文化ではなくなっていると思われ、さらに現代の百合文化自体も『百合姉妹』のマーケティング戦略によって戦前のエスによる権威付けがなされてきた側面があると思われるからです。

 

最後の点に関しては、例えば「百合の花咲く7つの瞬間」というコラムでは、①として吉屋信子花物語』を挙げた後、そのまま②として山岸凉子『白い部屋のふたり』(1971)を挙げ、また『白い部屋のふたり』には「エス」に関する言及がないにもかかわらず本作が「エス漫画の金字塔」と紹介されており、本稿の2節で指摘したような戦前と戦後の少女文化の差異が批判的に検討されることなく、両者が単線的に接続されています。

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また同号のコラムでは、嶽本野ばらによる「エス」のコラムが掲載されています。嶽本は氷室冴子と同じく、小説『ミシン』(2000)などで吉屋信子をはじめとした戦前の少女文化を明確に引き継いできた作家の一人です。このコラムでは、「「エス」という乙女しか持つことの赦されぬ最高級の恋愛を復古させましょう」という宣言がなされます。

 

こうした誌面構成からは、意地悪な見方をすれば、『百合姉妹』が『マリア様がみてる』ブームにあやかりつつ、戦前の少女文化と『百合姉妹』との連続性を強調することによって、恣意的に伝統を捏造し、雑誌を権威づけているようにも読めます。

 

だから何が悪いというわけでもないんですが、問題は海外の研究者によって、こうした構築性に批判的検討がなされることもなく、先程言った「現代の百合文化は、戦前のエスが源流にある!」的な言説が再生産されていることなんですよね。だいたいそういう議論の論調って、戦前のエスを語り、70年代の『白い部屋のふたり』みたいな有名どころの少女漫画を語り、最後に『マリア様がみてる』を語って、百合ジャンルを少女文化の観点から論じる、みたいなことをするんですけど、いやそれホンマか?っていう。時代も社会的背景も異なる少女文化における女同士の親密性を描いた作品群を並べても、そこにそれを並べるだけの論理的根拠は「女同士の親密性を描いている」という共通性以上に何かあるのか?文化の連続性に関する批判的視線が向けられなければ、さもそれらが単線的に結びついているかのような誤った印象を与えてしまうぞ。『白い部屋のふたり』みたいな有名どころだけじゃなくてちゃんと一次資料に当たって「造花の愛の物語」みたいな作品を取りこぼさないようにしないといけないんじゃないか?参考文献は『百合姉妹』でええんか?マーケティング戦略に乗せられてないか?

 

 

 

というわけで話をまとめると、戦前のエスに代表される少女文化と、戦後の少女文化、そして現代の百合文化の間には、確かに影響関係があるにはあるけれど、単純に直線で繋がれているわけでもなく、価値観の転換やイメージの拡散や作家による復古を経て今に至っているのだ、ということです。

*1:「『マリア様がみてる』のまなざし―“姉妹”たちの息づく場所」,「ユリイカ 総特集 百合文化の現在」,2014

*2:今田絵里香、2012、1945~70年の少女雑誌とジェンダー京都大学グローバルCOEプログラム親密圏と公共圏の再編成をめざすアジア拠点

*3:赤枝香奈子「戦後日本における「レズビアン」カテゴリーの定着」、小山静子・赤枝香奈子・今田絵里香編『セクシュアリティの戦後史』学術出版会、2014

*4:「フィクションにおける女子高、女生徒の描かれ方の変遷~『マリア様がみてる』は何を変えたか~」、第1期藤本由香里ゼミナール卒業研究集2012 HONEY a la mode

*5:こうしたステレオタイプとしての戦前の少女文化はその後、「キャラを立たせる」ために「お嬢様言葉」を使わせる、などの形で引き継がれていきます。例としては『エースをねらえ』のお蝶夫人などが挙げられます。

*6:嵯峨景子「吉屋信子から氷室冴子少女小説と「誇り」の系譜」『ユリイカ 特集百合文化の現在』

*7:赤枝香奈子、「百合」、 斎藤光,・澁谷知美、 三橋順子井上章一編『性的なことば』、講談社現代新書

【8か月】野田「百合文化を、研究したいよぉ~っ」村上「百合文化を研究したい!?」【振り返り】

(書いた人:レニ)

村上「どうも~~~!村上です!」

野田「野田で~す!」

村上・野田「リリカルラブリーです!お願いしま~す!」

野田「百合文化を、研究したいよぉ~っ」

村上「百合文化を研究したい!?」

野田「京大の百合好きをn人集めて、合体させて、最強の百合サークル、京都大学百合文化研究会を作りたいんですよ~~。ただ、百合文化研究会を作るのはとっても難しい。しかし俺は、絶対に作るぞ~。」

村上「ずっと何言ってんすかねぇ。まあでも、百合文化研究会、何か見てみたいかも!」

 

というわけで設立した京都大学百合文化研究会も、発足から8か月を迎え、無事に年を越すことができそうです。学生百合サークル連合のアドベントカレンダー担当回に合わせて、サークルの活動(主に後期)を振り返っていきたいと思います。

 

設立の経緯はこちら↓にも書きましたが、要因としては①もともと需要はありそうだった、②自分の大学院入学、③後輩が同じ時期にサークルを作っていた、ということがあります。アドベントカレンダーの別のブログではこの設立が百合サークル界における「シンクロニシティ」に位置付けられていましたが、ウチの事情はそういうことです。

余談ですが、「愛好会」「同好会」ではなく「研究会」にしたのは、活動に幅を持たせたかったから……というのもあるのですが、2018年に「リズ青」に触発されて作られたであろう「京都大学百合愛好会」のアカウントの亡骸を発見したからでもあります。

ku-yuribunken.hatenablog.com

 

 

活動の振り返り

スタァライトされる会(8/16、18)

夏休みのほとんど唯一の活動として、『少女歌劇レヴュースタァライト』の鑑賞会をしました。発案した当時は、ちょうど映画が盛り上がっていたので、それに合わせて企画しました。鑑賞会をするときには既に京都での上映は終了していることに気づいたのはまた別の話……。この衝撃の事実に気づいたので、僕は一人でアニメを全部見て、映画も見て、ブログも書いたので、実は鑑賞会は復習になってしまったんですよね。タイミングの悪いことよ。

 

②謎合宿(9月前半)

後輩が知り合いの色んなサークルに声をかけて9月中ずっと少人数の合宿を立てつづけに行う、というクレイジーな企画をやっていて、ウチもそれに乗っかりました。鑑賞会として「ユーフォ」1期、映画『櫻の園』、映画「ウテナ」を皆で見て、また個人的にその時消化していた「セーラームーン」と「レイアース」を垂れ流して、百合テラシーを高めることに成功しました。「ユーフォ」は高校時代の部活の雰囲気を思い出して少し気分が悪くなりましたが、よいアニメでした。

 

③活動場所の整理(10/6)

前期の間は野ざらしの理学部ベンチに集まっていたのですが、後期になって活動場所が確保できそうだということで、そこの整理をしました。結局そこは政治的な圧力(?)によって未だに使えていないのですが。現在は屋内の学生共用スペース的なところを使っています。

 

④『フラグタイム』鑑賞会(10/13)

『フラグタイム』の鑑賞会をしました。本当は『あさがおと加瀬さん』との2本立てで鑑賞会をする予定だったのですが、その後の座談会が盛り上がりすぎて、時間が無くなりました。。。そういえば座談会を録音して文字起こししてブログに公開するみたいな話が出ていたと思うのですが、やらないまま結局2か月が経ってしまった……。

 

⑤宝塚を見に行く会(10/16)

有志で宝塚を見に行きました。それはもちろん「スタァライト」と「かげきしょうじょ」を見たため……ではなく、僕が前期に友人に宝塚を激推しされたためです。企画自体が発案されたのは「スタァライトされる会」よりも早かったのですが、初動と報連相が遅く、そうこうしているうちに京大生協のチケットを取り逃したりして、気付けば数か月たっていました。こういうグダグダな所は反省点ですね。ただ観劇自体はものすごく良くて、近くにあった手塚治虫記念館に立ち寄ったりもして、ぜひまた行きたいと思いました。

 

⑥『あさがおと加瀬さん』鑑賞会(10/20)

改めて『あさがおと加瀬さん』の鑑賞会をしました。これも鑑賞会と座談会で2時間使いました。この座談会も録音を文字起こししてブログに公開するつもりだったのですが、結局やらずじまいになっている……。

 

⑦百合を見る会(10/27、12/1、12/7)

百合作品を持ち寄って皆で見ました。いつかの会の解散報告ツイートが200いいねされてびっくりした覚えがあります。

 

⑧『ユリ熊嵐』鑑賞会(11/3、11/10)

11/3が祝日だったので、12話アニメが見れるだろうと、『ユリ熊嵐』の鑑賞会をしました。前半は話の内容、というか語られている言葉の意味がよく分からず、「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにする作品」などと揶揄されていましたが、後半になると話の筋が見えだして、面白く見ることができました。この鑑賞会の後、サークルで「ユリ裁判」「ユリ承認」という言葉が流行ったとか流行ってないとか。

結末について鑑賞後、サークルは「世界はもはや革命できないので逃避するしかないのだという絶望」派、「世界は革命しなくても自分だけの世界を持てるのだという希望」派、「実は心中のメタファー」派の3つに分かれ、混沌を極めていた……。あのラスト、皆様はどう解釈したでしょうか……?

 

⑨ユリ裁判(11/17)

僕はじめ会員の何人かが所属している漫画読みサークル「京大漫トロピー」の会誌を読む、という企画でした。漫トロピーの会誌がNFで販売されることになっていたので、会員およびTwitterの皆様に向けた、一種のダイレクトマーケティングでした。会誌は無事ユリ承認されました。こうして「ユリ裁判」「ユリ承認」という言説が構築されていくんですね。

 

⑩こじらせろ!百合妄想(11/24)

コミック百合姫』の某コーナーを模した企画です。自分は『サインはV!』は百合なんだ(百合ではない)という話をしました。あとは『とらドラ!』に絡めて、「同じ男を好きになる女女は、価値観を共有しているから百合なんだ」という話が出てきたり、mihoyoの「原神」に絡めてソシャゲにおける女同士の関係が論じられたり、解析接続に百合を見出したり(!?)、かなり刺激的な話ができました。

 

 

今後の活動と、展望

 

①鑑賞会、「百合を見る会」、その他の企画

前期は活動場所の関係でほとんど鑑賞会が開けず、とりあえず空いた日は「百合を見る会」をする、という感じになっていたのですが、後期は活動場所を確保したことにより、鑑賞会がしやすくなりました。結果、鑑賞会3作、「百合を見る会」3回と、いい感じのバランスで活動できているように思います。コロナの状況が比較的マシになったことで、宝塚に行くみたいな企画もやりやすくなってきたかなと思います。あとはただの「愛好会」「同好会」じゃないからこそ出来るような、「こじらせろ!百合妄想」みたいな挑戦的な企画もやっていきたいですね。

 

②会誌を作るか……?

会誌を作りたいと何となくずっと言っていながら、結局何もしないまま年を越すことになってしまった……。多分新歓・5月コミティア・8月コミケに合わせて会誌を出そうとすると、そろそろ動かないといけないと思うが……。あるいは11月NFに合わせるならまだ余裕はあるのか……?他のサークルはどういうスパンで会誌を作っているんでしょうか。このままズルズルとなあなあにし続けるのも良くないのだろうし、どこかでトップダウン的に「やります!」としてしまうのが良いのかもしれない。

 

③持続可能なサークルに向けて

現状、一応発足人である自分が会長ということになってはいますが、年度が替わるにあたって代替わりとかした方がいいんだろうか……?ということをぼちぼち考えるようになってきました。一応自分はまだ大学に残るので、自分が引き継ぎ続けるというのもアリなのかもしれないが、しかし年長者がずっと上に立つサークルって新陳代謝なさそうであまり良いイメージ無いんですよね。多分自分より他の会員の方が百合についての話できるし、他の会員を巻き込んで話したりできるし。あと、一応ディスコードには居る人、数回だけサークルに来てくれた人、みたいな人を、どういうふうに巻き込んでいけばいいんだろう……みたいなことも考えたり、考えていなかったり。

 

 

最後に

何はともあれ、今年中はサークルを持続させることができそうです。ひとえに会員の皆様、Twitterで見て下さっている皆様のおかげです。今後ともよろしくお願いします。

【百合漫画大賞2021レビュー⑧】『安達としまむら』コミカライズから見る百合を描くメディアについての考察

 はじめまして! 当百合文研にたま~に出没する白雪です。百合漫画大賞関連記事は前回からさらに4ヶ月たってようやくの執筆です(なんか最近百合漫画総選挙が出てましたね……。)

 

 ということで、今回は2021年もあと2カ月で終わるというタイミングではありますが百合漫画大賞2021第2位の作品について語っていこうと思います。後で詳しく述べますがライトノベルのコミカライズ作品であるため、その作品の話の内容自体というよりは、メディアごとの表現の違いというところに重点を置いて、思いの向くまま語っていきたいと思います。

 

 ここで前置きを。メディアごとの違いということに焦点を当てる上でも、ストーリー上のネタバレを含む可能性がありますので、その点はご了承いただければ、と思います。また、これは研究会全体というわけではなく、あくまで白雪個人の感想なので、その点にもご留意いただけると幸いです。

 

 まずは後述すると言っていたこの作品の概要について簡単にご紹介しましょう。

 本作品は入間人間先生による電撃文庫刊行のライトノベル作品のコミカライズであり、原作第1巻は2013年に刊行されています(既刊10巻)。メディア展開としては本記事で取り上げるコミカライズに先立って2016年から2017年にかけて、まに先生の作画によるコミカライズがスクエア・エニックスガンガンONLINEで連載されていた(全3巻)ほか、2020年秋クールには手塚プロダクションのアニメーション制作により、アニメ化もされました。そして今回紹介するコミカライズは2019年の9月から『月刊コミック電撃大王』に連載されている、柚原もけ先生によるコミカライズとなります。受賞時点では既刊は2巻まで、この記事を書いている現在までは3巻まで刊行されています。

 私自身、アニメから『安達としまむら』の世界に引き込まれ、原作小説を買い揃えてしまったくらい、アニメ自体については語りたいこともあるのですが、ここではあくまで百合漫画大賞を受賞した漫画を中心に据えてお話していきたいと思います。なお、これ以降、コミカライズ・漫画版という言葉が何回も出てきますが、全て『月刊コミック電撃大王』連載版のことを指すことといたします。

 

 

あらすじ

 ここで、そもそも『安達としまむら』がどういう内容の作品かということについて、簡単にお話したいと思います。本作品は人間関係が苦手で友達なども殆どいない安達と、なんとなく人間関係について冷めきった態度をとるしまむらの2人の女子高生が互いに授業をサボっている中で出会い、お互いの距離を縮めていく、という作品です。あえてジャンル分けするとすると、かなり日常寄りの、それでいてしっかりとした百合作品と言った感じになるでしょうか。

 

 

 

コミカライズのポイント① ストーリーの再構成

 前置きが少し長くなりましたが、ここから2つのポイントに分けて、本コミカライズではどのような点が原作小説やアニメと比較して異なり、他媒体とは違った魅力を放っているのかについてご紹介していきましょう。

 まずコミカライズする上でのポイントとして指摘したいのがストーリーの再構成という点です。アニメ化・コミカライズ化両者に共通して言えることですが、ライトノベルは多媒体に比べて分量が非常に大きく、そのまま忠実にすべてを映像化・コミカライズ化することはなかなかないです。尺の都合上カットせざるを得ないとなると、*1やはりどこを使って、どこを切り捨てるか、そしてどのように前後を繋げるかということが腕の見せ所になります。

 

 そんな中、柚原もけ先生によるこのコミカライズは非常にうまくやっているという印象を受けました。原作を知っている私からしても受け入れやすい再構築が行われていました。驚くべきことは、そのように受け入れやすいのにも関わらず、安直に原作を忠実になぞっているどころか、このコミカライズは(少なくとも1巻と2巻は)原作小説単行本1巻分の内容をコミカライズ単行本1冊でまとめているという点です。私自身は他の会員の方とは異なり、あまり漫画に読み慣れているわけではないのでライトノベル1冊をコミカライズするのに漫画何冊必要なのか、ということについては疎いのですが、漫画1冊でライトノベル1冊分を描き切るのはなかなか珍しいと思います。

 

 もちろん、そのように大胆なことを行っているので、コミカライズでは原作を忠実になぞっているというわけではなく、例えば(原作小説・コミカライズともに)2巻では、安達としまむらがそれぞれに告げずに相手に贈るクリスマスプレゼントを考える、というシーンが安達サイド・しまむらサイドの双方から描かれるのですが、それを思い切って準備段階では安達サイドに絞る、などは行われているのですが、大きくカットしたエピソードの中でも要素要素が残されたエピソードに織り込まれて回収されていることも多く、原作のどの部分が描かれていないから整合性が付かない、ということもなく、非常にまとまりがいいです。更に、このコミカライズはカバー下に4コマ漫画が描かれているのですが、原作小説本編にちりばめられた小ネタのいくつかはその4コマ漫画の中でカバーされているのも原作勢として、地味に嬉しかったです。

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柚原もけ『安達としまむら①』裏表紙カバー下より

 

 

 

 

 

コミカライズのポイント② 原作の描写との比較

 『安達としまむら』の1番の魅力、それは人によっていろいろな考えがあると思いますが、私自身が考える1番の魅力は主人公の安達・しまむらの心情描写の丁寧さにあります。人付き合いに対する向き合い方が2人とも特殊な分、特別な間柄になる安達もしくはしまむらに対して、それぞれいろいろなことを考えます。その心理描写が丁寧に丁寧に描かれているのです。

 

 柚原先生によるコミカライズは、漫画として読みやすいようにまとめながらも、その『安達としまむら』最大の魅力を読みづらくない範囲で両立していることもまた、この作品の特徴なのです。もちろん、原作が大分心情描写が丁寧な分、全てが反映されているわけではありませんが、このコミカライズ版でも十分、『安達としまむら』の描写の美しさを感じとることができると思います。

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柚原もけ『安達としまむら』1巻27頁

 

 ただ、漫画版がアニメ版や原作よりも、描写という点に関して押しに欠ける部分も確かにあると思います。ここでは聖地の描写を例にとって原作・アニメ・漫画を比較していきましょう。

 聖地の描写というと、全てを映像として描写する分、アニメというメディア形態が一番表現しやすいと考えられると思います。それに対し、小説は文字が基本なので具体的な聖地については描写しにくい、とも一見思われます。しかし、『安達としまむら』の原作小説のすごいところは聖地に関する描写もしっかりと書き込まれている点にあります。例えば、本作品ではどのメディアでも共通してショッピングモール(モレラ岐阜)が頻繁に登場するのですが、原作小説ではショッピングモールの店の配置が安達の視点から丁寧に書かれ、私が3月に実際にそのショッピングモールはこのページで安達が歩いたのはどこなのか、小説の描写を基に探して歩くのが楽しかったことを今でも記憶しています。

 それに対して、漫画という媒体は(ゆるキャン△など聖地を描くことが物語の大きいウェートを占める作品でない限り)聖地の描写はしづらいメディアなのかな、と思われました。コマの大きさにはもちろん限りがあり、基本的には登場人物を描写することがメインとなるので、なかなか難しいところがあると言えそうです。

 

 このように、読みやすいかつ魅力が詰まっているため、サクッと読める漫画に対し、聖地巡礼という楽しみ方にはアニメと原作小説に軍配が上がるなど、楽しみ方によってメディアを使い分けたり、複数使ったりする、というのも1つの手なのかもしれませんね。

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安達としまむら』で頻繁に登場するモレラ岐阜(2021年3月 筆者撮影)

 

 

 

 

 

 

コミカライズのポイント➂ 解釈の違い

 最後に、コミカライズのポイントとして指摘したいのが、漫画なので当然といえば当然ですが、連続してイラストが描かれることによって漫画というものが成り立っているため、原作小説ではどんな表情をしているのかがわからない部分の安達・しまむらの表情もイラストとして描写されているという点です。アニメでももちろん全編映像ですから同じことは言えるのですが、漫画はどんどん移り変わっていくわけではなく、1つ1つの表情を留めた状態で描いており、読み手も自分のペースで読めるため、私も読み進める中で所々、自分がライトノベルを読んで想像していた表情と異なる点について、見逃すことなく読み進めていきました。

 

 このように比較しながら読み進めていくと、柚原先生の『安達としまむら』の解釈と、私達受け手の解釈が微妙に異なる部分がある、ということです。原作小説2巻の「しまむら ジムへ行く」というエピソードの1シーンを取り上げてみましょう。

 このエピソードでは、しまむらは安達の母親に偶然出会い、そこで母親が安達のことをよく言っていなかったのに少しむっとして、安達の母親に訂正を求めるシーンがあります。この部分の描写について、アニメ版のしまむらは安達のことを悪く言われてむっとしながらも、そこまで感情を表に出していないような印象を受けました。しまむらは人間関係に対する感情がフラットな部分が大きく、私もアニメ版の解釈に近いです。それに対し、漫画版はより感情を表に出しています。安達のことを特別に思っている故にこのような行動に出たのだと納得でき、こちらも自然に受け入れられます。

 このシーンについて、どちらの解釈が正解、ということはないのだと思います。漫画版1巻のあとがきを読む限り、原作者の入間人間先生はかなり自由に柚原先生に委ねているようなので、入間人間先生公認でどちらの解釈も正解、と言えるのだと思います。漫画版とアニメ版、そして原作小説を読んで私達が感じる解釈。そのどれもが微妙に異なることがありえ、その解釈の違いを感じながら読むことでより深く作品について考えることが出来るのではないかなと感じました。

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上 アニメ『安達としまむら』第4話 制服ホリデイ   下 柚原もけ『安達としまむら』2巻41頁

 

 

 

 

 

 

終わりに

 以上、白雪の筆が赴くままつらつらと書かせていただきました。特にコミカライズに読み慣れている方はそんなの当り前じゃないかと思われた方も多いかもしれませんが、そうだとしたら申し訳ない限りです……。

 

 それでも、最後に表題にかえって、まとめとして百合作品を描くメディアとしてはどれがふさわしいのかということについて私なりの意見をまとめてこの稿を終えたいと思います。

 

 最後の最後になって唐突ですが、百合を描いた作品の特徴の1つとして、特別な関係になる2人の心情描写というのが通常の男女の恋愛作品よりも重要になってくる、というのが私の自論としてあります。女性同士の恋愛は普通じゃないとされていた時代が長かったからこそ、異性間の恋に比べて、なぜ相手が好きなのかが掘り下げられることや、特別な関係になっていく過程の描写が精密な作品が多いように感じます。

 

 でも、それらを表現するもの、と一口に言っても、これまたいろんな手段があります。直接的な言葉による描写かもしれないし、表情による示唆かもしれないし、もしかしたらそこにBGMを加える、と言った描写もあるかもしれません。その全てが1つの好きになっていく過程という1つの現象に起因しているため、つながっている。その全てを一度に描写できるメディアなんてなく、その描かれなかった要素に関しては解釈がいくつか存在しうる。そう言った解釈を示してくれるのが異なるメディアであり、他のメディアに触れることであるメディアに触れた時に自分の思っていたものと違う解釈に出会うことができ、他の解釈を知ることによって、より”恋”だとか”友情”だとかの現象の解釈について思索を深めていくことができる。

 

 今回主に扱ったのは解釈という点でしたが、勿論作品を解釈するためだけに私達は享受しているのではなく、例えば聖地巡礼だとか、楽しみ方も他にいろいろあり、それに適したメディアもあれば、1つのメディアだけではなく、複数のメディアから見ることでよりその楽しみ方も深まっていくこともある。結局はどのメディアが一番表現方法として適しているとは言えないし、1つのメディアに固執してては見えない世界もあるのだと思います。なので、これを契機に1つの作品について(メディアの種類的にも)多角的に捉えられるようにしていきたいと自戒しつつ、この稿を終わりにしたいと思います。

 

 

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。本当に最後になりましたが、『安達としまむら』は原作小説も、今回メインで紹介した漫画版も、アニメ版も、いずれもクオリティの高いものなのでもし少しでも興味があったら触れやすい媒体から触れてみてください。きっと後悔しないと思います。

 そして、1つの媒体でしか『安達としまむら』に触れたことのない方も、これを契機に他のメディアを通じて、『安達としまむら』についてより深く楽しむ一助となれば幸いです。

*1:漫画版1巻あとがきで柚原先生自身も、尺と登場人物の深みを増す描写を盛り込むことのバランスについて葛藤されていたようです。

【感想ブログ】『ユリ熊嵐』とは何だったのか(1~9話)

(書いた人:レニ)

 

 オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたら、何故か美味しかった。そんな気持ちでした。

 

 今日の鑑賞会では、『ユリ熊嵐』1~9話を見ました。全員の頭にハテナが浮かんでいました。透明な嵐とは何か、断絶の壁とは何か、ユリ裁判とは何か、全く語られないままに物語は進み、何やら『ロミオとジュリエット』的なサムシングが展開されていることは分かるが、具体的な内容はよく分からず、しかし面白い。そんな感じでした。まだ9話しか見ていませんが、このよく分からなさが新鮮なうちに、『ユリ熊嵐』とは何だったのか、自分なりに考えてみたいと思い、キーボードを叩いています。

 思うに『ユリ熊嵐』とは、親密性に伴う情熱と、それを「同性愛的なもの」/「友情的なもの」に分断する社会規範への疑義の物語だったのではないでしょうか。

 

 物語の中で、熊は人を「スキ」になって食べようとし(この「食べる」行為に性的な含意があることは言うまでもないと思います)、人は熊を他者として排除しようとします。人と熊の間にはいつしか「断絶の壁」が立ちはだかり、熊は人に化けて「好き」を叶えようとし、人は危険因子を「透明な嵐」によって取り除き、自分たちが「友達」であることを確認する。

 「透明な嵐」のモチーフは、その場面でしばしば「空気を読め」という命令が言及され、またスマホが象徴的に演出されるように、直接的には情報化する社会の中で真綿のように若者の首を絞める同調圧力でしょう。しかしここで問題にすべきは、「透明な嵐」はいったい「何」を抑圧しようとしているのか、という点です。

 このとき、「透明な嵐」に伴って排除される人物が、いずれも同性間の親密性を達成しようとする人物であることに気づきます。純花、紅羽、そして熊である銀子とるる……。ここから想起されることは、以下です。「透明な嵐」とは、親密性の在り方を規定する、異性愛規範のことではないか?

 

 

 「どうして、同性との友情をあとまわしにして、異性と恋をしたり繁殖したりするよう勧めるんだろう。」「他者に対する感情を、「友情」や「恋」といった一言ですっぱり分類できるほど、ひとの心は単純にできていない。」(三浦しをん,2010,百合姫vol21)

 

 

 この社会は、親密性に友情とか恋愛とか名前を付け、それに伴う規範性を課そうとするようにできています。古くはセジウィック『男同士の絆』、より理論的には東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』などが語るように。その軸には異性愛があり、同性間の過剰な親密性は「同性愛」と自他に認識され、抑圧されてしまいます。

 このことを考えると、異質な他者を同調圧力によって排除し、それによって自分たちが「友達」であることを確認する「透明な嵐」が、過剰に見える同性間の親密性を「同性愛」だと認定してみせ、それを確認しあうそぶりによって、自らが「異性愛者」なのだと互いに証明する、異性愛規範の見えない圧力が働く現実世界で良く見る光景とパラレルであるように見えてきます。

 

 「透明な嵐」がこうした、ミクロレベルによる親密性の分断とその規範性の圧力、のメタファーだとすれば、物語世界において人と熊の世界を分ける「断絶の壁」とは、「他者に対する感情を「友情」や「恋」といった一言ですっぱり分類」することを強要する、親密性を巡る社会規範そのもののメタファーといえるでしょう。親密性を自明に分節する側にいる「人間」にとって、親密性の分節の向こう側にいる「熊」は「他者」であり、故に「他者」を排除することによって、「我々」意識-親密性のオキテを守る「友達」同士である―ことを確認するのです。

 この親密性の分節がもたらす抑圧は、外部からの同調圧力としてのみならず、内面化されたものとしても、人々を捉えます。それは本作のヒロインである紅羽の中によく表れています。何故、幼少期の紅羽は熊である銀子のことを忘れてしまったのか。それは親密性の分節を社会化により獲得し大人になっていくこと、ボーヴォワール的に言えば「人は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」ということの象徴にほかなりません。何故、紅羽は熊を撃ち殺し続けるのか。それは親密性の分節の「向こう側」の、無意識的な抑圧の象徴にほかなりません。

 

 ここで、本作で示される親密性の形態に注目してみます。『ユリ熊嵐』では、純花と紅羽、あるいは熊たちの親密性の形も、「透明な嵐」によって結ばれたクラス集団の空虚な親密性の形も、同じ「友達」として言及されています。前者の親密性は、見ていて「それは恋じゃないんか……?」と思うような場面でも、一貫して「友達」という言葉が用いられており、恐らく意図的にこのようにされているのだと思います。つまり、一見質的に異なる親密性の形態を、あえて同じ「友達」という言葉で名指してみせることによって、我々の自明視している親密性の分節が実は恣意的に構築されたものにすぎないことを暴き出しているのです。

  

 

 前者の「友達」と後者の「友達」は、しかし本作では明確に区別されています。それは、前者には「スキ」という情熱的感情が伴う、ということです。そして本作は、この情熱について、ギデンズが語る2つの面を的確に切り取っています。

 一つ目は、ヨーロッパ由来のロマンティック・ラブの理想が普遍化した現代社会において、このような情熱は異性愛のものとして規範化されている、ということです。先程まで異性愛規範と親密性の分節について語ってきましたが、「断絶の壁」の一方の人間-親密性の分節を内面化・同調圧力化した人間-にとって、情熱的な親密性を同性間に求めることはできません。「断絶の壁」の他方の熊、および人間側で抑圧された人間のみが、「スキ」という情熱的な親密性を同性間と持つことができるのです。そして前者の人間関係の空虚さを描き、後者の人間(含む熊)関係の、咲き誇る百合の花に象徴される生のエネルギーを強調することによって、異性愛規範が我々にもたらす限界を批判的に捉えているといえます。

 二つ目は、こうした情熱的感情は、社会的逸脱をもたらすほどの危険性を孕むということです。もちろん人間関係は根本的には暴力なのですが、こと情熱的感情に関して本作では、「熊が人間を食べる」と「熊が人間をスキになる」が表裏一体のものであることによって、この側面を切り取っています。また人一倍欲望に忠実であり、9話最後で主人公を暴走させる蜜子というキャラの在り様や、「スキ」な人への嫉妬のあまり紅羽を食べる計画を綿密に練るユリーカの姿には、この情熱的感情の裏側としての危険な側面を象徴しているように思います。百合の影として浮かび上がる鳩がユリーカのモチーフになっているの、上手いです。

 

 

 以上、長々と書いてきましたが、整理すると次のようになるでしょうか。「『ユリ熊嵐』で描かれているのは、異性愛規範に沿うように人々の親密性を分節する社会規範と、それにより「外部」化された同性間の情熱的感情の行方である」。もちろん多分に(というかほとんど?)自分の妄想の産物ですし、ユリ裁判のあの3人とか、「ユリ、承認!」とは何だったのかなどまだまだ分からない部分は有りますが(「承認」といえばナンシー・フレイザー『再配分か承認か?』ですね。やっぱり社会的文脈じゃないか!)、あと3話でどのように物語が結ばれるのか、楽しみです。

「百合」ジャンルの本質を”理解”ってしまいました

(書いた人:レニ)

 

 百合について考えていたら夏休みが終わっていたんですよ。

 

 「百合」というジャンルを成り立たせるものについて、サークルの活動を通して、また自分で作品に触れていく中で、社会学でレポートを書けるくらいには考えがまとまってきたので、それを元にしつつメモ的に考えを残しておきたいと思います。

 

1、「エンコーディング/デコーディング」から考える「百合」

 

 まず、「百合」というジャンルの特性を考えたとき、「その外延が曖昧である」ことがあると思います。もちろん、あらゆるジャンルにおいて「これはAである」と適応できる範囲に関しては議論が生じるものですが。しかし、例えば田原(2020)は、同じ同性間の関係を扱うBLに比べ「百合ジャンルは(しばしばこのジャンルがガールズ・ ラブと呼ばれるにも関わらず)必ずしも恋愛関係であることを必要条件としない曖昧さをもって」いると指摘し、「物語られる関係性の質を限定することもできない」と論じます。またMaser(2015)も、「百合」の定義に関する議論はファンの間でも避けられる傾向にあるとし、それが「地雷原minefield」である、とまで言っています。このように、百合に関しては特にこの傾向が顕著であると考えます。

 

 そして、この曖昧さを考えた時に示唆的なのが、(以前ツイートした)『コミック百合姫』2011年1月号の特集記事です。この記事では、「百合脳を鍛える」として、様々な作品に対して「これは百合である」という読みを行ってみることが奨励されていまいた。

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 この記事は、「百合」として指示されている対象の中に、「誰がどう読んでも『これは百合である』と読める」作品と、「読み手によって『これは百合である』と読めたり読めなかったりする」作品が存在していることを示唆します。

 

 ここでは前者を「庭園の百合」(「まどマギ」座談会参照)、後者をシュレディンガーの百合」と呼んでおきましょう。

 

 

 そして、こうした「読み」の多様性を捉えるために、カルチュラル・スタディーズの理論的枠組みを導入したいと思います。スチュアート・ホールのエンコーディング/デコーディング」モデルです。これは、20世紀半ばのマスコミ研究が単一的・受動的な受け手を想定していたのに対し、様々な受け手の重層的で多様な「読み」に焦点を当てるために生まれたものです。(ここでは山口(2001)の説明に依拠)

 「エンコーディング/デコーディング」モデルでは、メディアの社会的意味が発話者のエンコード(意味の発信)と受話者のデコード(意味の解読)により創出されるとします。そして、受け手のデコードには、3つの立場が存在します。

 

①支配的な位置エンコードの〈意図〉とデコードの〈読み〉がほぼ一致する。

この「読み」では、メディアのメッセージは読み手に、送り手の「こう読んでくれ!」という意図の通りに「解読」されます。例えば、『ONE PIECE』を少年漫画として読む読者、みたいな。

 

②交渉的な位置:支配的な〈意図〉や期待された〈読み〉の力を大枠で認めつつも、独自の〈読み〉を部分的に試みる。

この「読み」では、メディアのメッセージに対し、受け手は一部ではそれに基づきつつも、一部ではメディアのメッセージに留まらない「解読」を行います。例えば、『ONE PIECE』を読んだ読者が、その内容に基づきつつも、友情関係を恋愛関係として表現し、「攻/受」や「カップリング」等のルールに基づき「やおい」同人誌を作成する場合は、これに該当するといえます(永井2002、金田2007)。

 

③対抗的な位置:支配的な〈意図〉や〈読み〉に対立した独自の〈読み〉を実践する。

この「読み」では、メディアのメッセージにおける送り手と受け手の認識は、完全に異なるものとなります。『ONE PIECE』の例はパッと出てきませんが。

 

 

 この「エンコーディング/デコーディング」理論の言葉で、「百合」ジャンルの内実を分析していきます。

 

 まず、誰がどう読んでも「百合」と読むことのできる「庭園の百合」について。例えば、『コミック百合姫』掲載の作品や、タイトルに「百合」とつく作品なんかは、既に作品自身が「百合」と自己言及しているので、「庭園の百合」と言えるでしょう。また先述の図のように、表紙で少女2人がキスをしている作品も、「庭園の百合」と言っていいと思います。

 こうした作品に対して「百合である」という読みがほぼ自明に成立しているのは、作品を「百合」というジャンルに位置づけ、「百合として読んでくれ!」とする送り手の意図が存在し、読み手はそのエンコードされた意図を、掲載媒体やタイトルや表紙などを通して「正しく」デコードしているため、言い換えれば「支配的な位置」に立った読みが成立しているためといえます。

 

 では、読み手によって解釈に違いが出るシュレディンガーの百合」はどうか。

 ここで示唆的なのが、百合文研×ゼロ年代研で行ったまどマギ」座談会での議論です。

ku-yuribunken.hatenablog.com

 

 まず、「まどマギ」の送り手のエンコードとして「魔法少女アニメ」があることを確認しておきましょう。タイトルに「魔法少女」とあり、キービジュアルも5人の「魔法少女」の姿が映り、ストーリーも「何らかの契機により特殊能力を獲得し」た「少女が数々の問題を解決しながら成長していく物語」(小林1999)、という既存の「魔法少女アニメ」への意識が伺えます(もっとも、それは逆手に取られるのですが)。

 一方で「百合」に関してはどうか。とりあえずテクスト(一次資料としてのアニメ)や公式サイトを見る限り、作品を「百合」ジャンルに位置付けようという送り手のエンコードはみられないように思われます(実際には制作側がどれだけ「百合」を意識していたか、本当のところは分からないのですが、とりあえず議論の簡便化のためにそう仮定しておきます)。しかし一方で、ファンの反応や、「まどマギ」を「百合」に位置付ける論考(『ユリイカ 特集 百合文化の現在』における藤本(2014)など)の存在を見ても分かるように、受け手の側での「これは百合である」という「読み」が成り立ちうる作品であることも確かです。

 そして、座談会では、「まどマギ」が「百合」であると読む百合文研のメンバーと、そうした解釈を行っていないゼロ年代研のメンバーという、意見の相違がありました。ここから、まどマギ」は「シュレディンガーの百合」である、として話を進めます。

 

 「シュレディンガーの百合」において読み手が「百合である」という読みを行う、という現象は、いかなるものなのか。これを検討するとき、座談会での次の一幕が示唆的です。(【ゆう】:ゼロ年代研、【すず】:百合文研)

 

【ゆう】ちなみに僕はほむらと杏子の関係に微妙な良さを感じてしまうんだけど。あのビジネスライクな関係。

【すず】分かります。

【ゆう】ワルプルギスの夜に立ち向かう時も、「叛逆」の映画でも、「あなたはバカじゃない」っていう一定の信頼があるんですよね。戦士同士の絆みたいな。そういうところに良さを感じてしまうのは百合なのかな。どうですか百合の方。

【すず】百合です。

【ゆう】百合ですか。

 

 この場面の興味深さは、先述の「やおい」同人誌との比較で明らかになります。永井(2002)や金田(2007)の議論では、「やおい」同人作家の「交渉的な読み」においては、友情関係の恋愛関係への読み替えや、「攻/受」「カップリング」といった固有の解釈コードに沿った読みがなされることが指摘されています。しかしこの場面では、ゼロ年代研と百合文研の2人は、テクストに描かれた関係性を全く同じように読んでおり、しかしそれに「百合」という名付けを与えるか否かという一点でのみ、違いが生じているのです。この場面は分かりやすい一例として提示しましたが、座談会では、テクストの読解に関しては意見が一致し、しかし「百合」という名付けに関しては相違がある、という状況がしばしば起こっていました。

 

 「女同士の関係性」と「『百合』という名付け」が必ずしも対応していない、という認識は、ゼロ年代研の人々からも語られていました。

 

【ちろ】ぱっと、これは百合だ!という感覚が僕の中にないです。僕もヘテロラブ作品に出てくる女同士の関係みたいのは好きなんですけど、なんだろうな。

 

【ゆう】何というか、僕は百合は「やが君」を通じてしか分からないんだけど、「やが君」の良さは分かるんですよ。(中略)女の子同士の良さはめっちゃ分かる。でも、「百合」ってパッケージされるものの良さはいまいちよく分からないって感じ。だから「まどマギ」が百合的かって言われると、分かんないってなる。

 

 ここから、「シュレディンガーの百合」に関して、以下のように纏められます。

 まず、送り手のエンコードとして「百合」が意識されていない、女同士の親密性を描く作品が存在します。この作品に対し、「百合である」と意識しない読みは、「支配的な位置」にあると言えます。一方でそれを「百合である」とする読みも可能であり、それは「やおい同人誌」のように独自の読み替えや解釈コードを適応するのではなく、テクストをテクストとして引き受けながら、それに「百合である」という名付けを与えることによって成立します。言い換えれば、シュレディンガーの百合」では、それを「百合である」と名付けるという「交渉的な読み」が成立しうる作品なのではないでしょうか。

 

 

 改めて、冒頭の図に戻りたいと思います。

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 今までの議論を踏まえると、上の図が「エンコーディング/デコーディング」理論における「読み」の3つの位置に対応していることがわかります。

 

①「『コミック百合姫』は百合である」

―これは「支配的な位置」に立った読みである、ということができます。『コミック百合姫』は既に送り手が「百合である」という意図を発信しており、読み手がテクストからその意図をその通りに読みとるとき、①の命題が可能になります。(=「庭園の百合」)

 

②「『けいおん』は百合である」

―これは「交渉的な位置」に立った読みである、ということができます。『まんがタイムきらら』に掲載された本作は、一般的には「空気系」「日常系」というジャンル区分で語られることが多いでしょう。テクストにも(「送り手の意図」なるものを我々は真に読みとることができないが、少なくとも①と比べると)「百合である」という意図は薄いように感じます。これは、上の図が示しているように、「百合である」かどうか認識が分かれる作品といえます。『けいおん』に「これは百合である」という名付けを与える受け手の認識によって、②の命題が可能になります。(=「シュレディンガーの百合」)

 

③「『バキ』は百合である」

―これは「対抗的な位置」に立った読みである、ということができます。百合の必要条件を「女同士の関係」にあるとするならば、「『バキ』は百合である」という命題は文字通りには偽です。しかし、それでも③の命題を高らかに宣言することで、我々は『バキ』に対する読みのオルタナティブを獲得することができるのです。(=…なんて言えばいいんだろう。)

 

 

 

2、「百合である」という読みを成立させるもの

 ここまで書くと自動的に、次の2つの疑問が頭に浮かびます。

 

①「百合である」という読みを行える受け手と行えない受け手の違いは何か。

②「百合である」という読みが可能になる判断基準は何か。

 

 次に、この問いに関して、仮説的にはなりますが、検討していきます。

 

①「百合である」という読みを行える受け手と行えない受け手の違いは何か。

 先の座談会では、百合文研のメンバーから、次のような発言が聞かれました。

 

【いし】僕は作品を見ながら、百合はどこに散りばめられているかずっと探しながら読んでますね。フィルターとして最初に「あるかないか」っていうのが掛けられます。

【すず】あー。

【だち】あるある。それはある。(中略)自分は基本的にその、百合と言われる作品をずっと追って百合を読み続けてきたので、やっぱりフィルターは抱えます。

 

一方、百合に造形の薄いゼロ年代研のメンバーからは、次のような発言が聞かれました。

 

【ちろ】まず僕は百合を「百合」として見れないというか、何が「百合」なのかっていうのが自分の中での確固たる確信が無いんですよね……。

 

 この会話が示唆するのは以下の3点です。まず、「百合」が好きな人間は、作品を読む際、つねに「百合である」という「読み」を行う備えが出来ているということ。次に、その態度が「百合と言われる作品」に継続的に触れる中で会得されたものであること。そして、それは「百合である」という「読み」を行わない人間には存在しない感覚であるということ。

 ここからややアクロバティックに議論を展開すると、「百合」とされる作品を継続的に摂取することで、自分なりの「百合」観や、「百合」という読みを行う態度を学習し、それによって「百合である」という読みを行うことが可能になるのではないでしょうか。

 

②「百合である」という読みが可能になる判断基準は何か。

 ①の議論を踏まえると、人が何をもって「これは百合である」と判断するかは、その人が今まで「百合」とされる作品に触れる中で培ってきた「百合」観に依る、つまり人それぞれだという、身も蓋もない結論になります。

 しかし、それではあまりにもつまらないので、なぜ様々な作品が「シュレディンガーの百合」として、潜在的に「百合」として読まれうる可能性を秘めているのかを考えてみたいと思います。

 

 ここで手掛りとなるのが、安田(2016)の議論です。安田は、アイドルアニメに関する議論の中で、描写される緊密な二者の親密性に関し、以下のように言及します。

 

 「これらのプロットやイマージュはどれも「恋愛関係である」と断言できるような言明を欠いている。同性愛の偽装というにはあまりにも直接的であり、だが同性愛の表出というには実質的な裏付けを欠いている。もっとも異性愛描写も異性愛規範の描写も殆ど存在しない以上、われわれはこれらの恋愛の形象はすべて可能態であるとみなさなくてはならない。すなわち、知性は「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」と真偽を保留する判断をしなくてはならず、可能態を現実態へと飛躍させるのは想像力の領域においてでしか許されないのである」

 

 安田はこうした想像力の領域における「恋愛関係」の「読み」を、「百合の可能態」として指摘しています。この安田の議論には、1つの重要な論点と、1つの重要な見落としが含まれています。

 論点とは、女性同士の親密性の表象それ自体が、親密性の多様な読みに開かれているということです。

 やおい同人誌は男性同士の緊密な親密性を描くために、友情を恋愛に「読み替え」て表現するという作業を必要としますが、女性同士の場合は「恋愛関係である」と断言できるような言明を欠いて」いようとも、そのような緊密な親密性を親密性それ自体として描くことができるといえるでしょう(理論的根拠が薄弱ですね。許して。)

 そして安田によれば、そのような親密性の表象は、受け手の「想像力の領域」において、「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」と解釈することが可能なのだといいます。これを踏まえるならば同様に、その表象された親密性を「友情」として読むことも、「思慕」として読むことも、あるいは言語以前の親密性として読むことも可能になるわけです。

 

 見落としとは、「百合」は必ずしも恋愛関係のみを描くわけではないということです。

 安田が「百合の可能態」として語るのは「これは恋愛感情・恋愛関係を指し示しているかもしれない」という読みに限定されています。しかし、これは僕が『百合姉妹』『コミック百合姫』を創刊号から持っているから分かるのですが(このまとめもいつかブログにして出したいですね)、「百合」はもちろん恋愛を一つの軸にしてこそいるものの、「友情」や「思慕」、あるいは言語以前の親密性をもその表象の対象とし、「庭園」を色とりどりの百合で染めてきました。すると自然に、そこで育った人の「百合」観も多様なものであり得、結果的に「シュレディンガーの百合」も多様なものになりうるといえます。

 

 以上の議論を強引にまとめるならば、女性同士の親密性の表象はもともと多様な「読み」に開かれうるものであり、また「百合」も同様に多様な親密性に開かれうるものであるため、親密性がいかに読まれるか×いかなる親密性が「百合」と認識されるか、によって、「これは百合である」という読みの潜在的な可能性が増大することになると考えられます。(「百合の可能態」概念の拡張)

 

 

 

 

 

3、仮説的結論

 今までの議論から、「百合」ジャンルを成り立たせる「読み」の在り方を仮説的にまとめると、以下のようになります。

 

・まず、①送り手が「百合である」と意図して描いた作品が存在し、そこでは多様な親密性が描かれている。これは送り手の発信を受け手の適切なデコードを経て、多くの受け手に「百合である」と認識される。

・次に、②送り手が必ずしも「百合である」と意図・発信していないが、女性同士の人間関係が描かれた作品が存在する。それは、ある受け手にとっては、「百合である」という発信が無いため、「百合である」とは認識されない。また、ある受け手にとっては、読みとられた女性同士の親密性が、自らの中の「百合」観に照合されることで、「これは百合である」という読みがなされる。しかし、ある受け手にとっては、読みとられた女性同士の親密性が、自らの中の「百合」観と合致しないため、「これは百合である」という読みはなされない。

・そして、①が幹として「百合」というジャンルを確固たるものにしながら、②が枝葉として「百合」というジャンルの適用範囲を拡大させていく。結果、「百合」というジャンルの総体は曖昧化する。

 

 

もちろんこの議論は推論と仮説と一部妄想で成り立っているので、これがどれくらい的を射ているのかは分かりませんが、今後のサークル活動の中で洞察を深めたいですね。

 

参考文献

藤本由香里, 2014, 「「百合」の来し方 「女どうしの愛」をマンガはどう描いてきたか?」, 『ユリイカ 平成26年12月号』, 青土社.

金田淳子, 2007, 「マンガ同人誌 解釈共同体のポリティクス」, 佐藤健二・吉見秀哉編『文化の社会学』2007、有斐閣アルマ.

小林義寛, 1999, 「テレビ・アニメのメディア・ファンダムー魔女っ子アニメの世界」, 伊藤守・藤田真文編, 『テレビジョン・ポリフォニー -番組・視聴者分析の試み』, 世界思想社.

Maser, Verena, 2015, “Beautiful and Innocent: Female Same-Sex Intimacy in the Japanese Yuri Genre”, Universität Trier, Doctoral Thesis.

永井純一, 2002, 「オタクカルチャーに見るオーディエンスの能動性」, 『ソシオロジ』, pp.109-125.田原康夫, 2020, 「「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して―」, 『身体表象』,pp.21-47.

山口誠, 2001, 「メディア(オーディエンス)」, 吉見俊哉編, 『カルチュラル・スタディーズ』, 講談社選書.

安田洋祐, 2016,「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」 『アイカツ!』『ラブライブ!』の女同士の絆」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集アイドルアニメ』

 

コミック百合姫』2011年1月号

【劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト】舞台少女の熱量と成長

(書いた人:レニ)(多分ネタバレしかない)

 

すごいものを見てきました……『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』……

 僕も遅ればせながら先程スタァライトされてきました。サークル的にはアニメ鑑賞会はまだなのでフライングスタァライトになりますが、何かとんでもないものを目撃したので、見た直後のフレッシュな心のままに、少女達の熱さに焼き殺された心のままに、レビューを書き遺しておきたいと思います。とはいえ個別のキャラやシーンの良さみの深さをいちいち語るには、この余白はそれを書くには狭すぎるので、ここでは舞台少女の「熱量」と「成長」という2つのトピックについて書いていきます。

 

1、舞台少女のレヴューはなぜ「熱い」のか?

 タイトルにも冠されている、本作の最大の見所「レヴュー」。舞台少女たちの熱い想いがぶつかり合うその熱量に、僕の心も劇中のキリンと同様に焼き殺されました。なぜ「レヴュー」はこれほどまでに「熱く」、見た者の心を動かすのか?こういうことを分析するのは野暮だとは百も承知ですが、自分なりに3つの要因を考えてみました。

 ①「ライバル」という関係性

 ②「舞台」という設定

 ③「通過儀礼」という位置づけ

 

1,1 「ライバル」という関係性

 「顔の良い女の子が全力で競い合うのは良い」というのは皆さん『ウマ娘』で予習済みとは思いますが、この物語の舞台少女たちも、「トップスターになる」という同一の目標を目指し、時に助け合い、時に戦いあい、切磋琢磨しながら成長していく「ライバル」として表象されます。男同士のライバル関係は数あれど、女の子同士のこういうライバル関係って独特の良さがありますよね……。この「良さ」って何なんだろうと考えたとき、自分の中で近い感覚ってスポーツ少女漫画なんですね。『サインはV!』『エースをねらえ!』みたいな。

 これを手掛かりに考えていくと、ここで表象されているのが「極度に純化されたホモソーシャリティ」であることに気付きます。「ホモソーシャルな絆」は現実の世界では同性愛嫌悪と女性嫌悪を内包した男同士の絆とされがちですが(セジウィックとかの議論)、少女達を主人公にしたスポーツ少女漫画ではそういう現実の社会規範をすっとばして、純化した女性同士のホモソーシャリティによる親密性を描き出すことができ、それが「ライバル」という関係性に結実するわけです。同性だけの空間で、同じ目標を目指し、助け合い競い合い認め合い求め合いながら、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話する、「ライバル」という独特の親密性……。そして、これってそのまま「レヴュー」なんですよね。スポーツ、レヴュー、いずれも熱いバトルの中で、「ライバル」という、極度に純化されたホモソーシャリティに支えられた少女同士の熱い絆を描くことができる設定なのです。映画の中でも真矢とクロディーヌが愛を告白しあいながら戦っていてあああああああ~~~~となりました。

 

余談ですが先日、「バキは百合」という引用ツイートがたくさんきました。これもホモソーシャリティと親密性の結びつきの例でしょうか。

https://twitter.com/KU_yuribunken/status/1414870424316301314?s=20

 

1,2 「舞台」という設定

 この「レヴュー」の熱量をさらに増幅させるのが、それが「舞台」であるということです。これには「言葉で演じる」ことと「舞台装置を出す」ことの2つの側面があります。

 まず「言葉で演じる」ことについて。唐突ですがここでHIPHOPの話をします。僕は今は無き『フリースタイルダンジョン』という番組が好きだったのですが、好きなMCバトルの1つに般若vsR指定があります。今まで番組のリーダーを張っていた般若がトップを退き、後輩のR指定にその座を明け渡すという、いわば襲名式を、MCバトルで行ったんですよね。それがまあ熱くて、互いのリスペクトや感謝がぶつかり合って出演者全員感動で号泣、みたいな。このバトルに関して、審査員だったラッパーのKENTHE390が「素の言葉で言うとめちゃめちゃクサくて聞いてられないけど、HOPHOPに昇華させることでその熱量が全部伝わってくる」みたいなコメントをするんです。んで話を戻すと、映画のレビューの場面を見てるとき、僕の脳裏でずっと般若vsR指定がダブってました。日常の言語ではどうしても扱えないような感情の重さの会話でも、舞台のセリフに昇華させることで、その熱量を全部伝えることができるし、その中で本音がマジトーンで吐き出されると、コントラストで一層感情が強調される。個人的には香子と双葉のレヴューが好きです。

 次に「舞台装置を出す」ことについて。レヴューでは舞台少女の感情に応じて象徴的な舞台装置が出てきて、その熱量を最適な形で演出し、増幅させていきます。しかも謎空間で行われているから何でもアリ。そういった舞台装置の使い方がとても印象的でした。「通過儀礼」としての決闘にイマジナリーな領域を設定し、それに応じた舞台装置でそれを彩るのは、おそらく「ウテナ」のオマージュ(決闘ごとに名前があり、胸の薔薇を散らした方が勝者で、最終勝者が世界を革命する)で、最近だと「シンエヴァ」もやってた手法ですが、にしても映像技術の凄さと発想のぶっとび方で、レヴューを極めて緊張感と躍動感と面白さあふれるものにしていました。レヴュースタァライト半端ないって。突然デコトラで突進するとか、オリンピック始めるとか、東京タワー吹きとばすとか、そんなんできひんやん、普通。

1,3 「通過儀礼」という位置づけ

 「レヴュー」の中で舞台少女たちは、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話し、その中で自他を見つめ直していきます。要するに「レヴュー」とは舞台少女にとって、成長するための通過儀礼なわけです。

 「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは何か。「成長」は近代以降、様々な物語の主題となってきました。しかしそれは、ビルドゥングスロマンの古典であるゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が理想的な「市民」として主体を確立する物語であったように、主として男性的なテーマとして語られてきた側面は否めません。一方で「少女」についてはどうか。そもそも「少女」というカテゴリーが登場したのは明治期の女学生の登場に伴うものですが、戦前において「少女」の「成長」とは、良妻賢母規範を守らなくてもよい「女学校」というモラトリアムを離れ、結婚して「妻」となることでした。また戦後になると、主に少女漫画の世界で、少女の成長とは恋愛を経験して「おとなになる」ことを意味するようになっていきます。「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは、「恋愛」や「結婚」といった男性中心主義的ジェンダー秩序に取り込まれ客体化されることとして表象されてきたといえます。

 しかし、「舞台少女」にとっての「通過儀礼」とは「レヴュー」であり、「成長」とは「トップスターになること」、つまり「理想的な『スター』として主体を確立すること」にあります。「レヴュー」という通過儀礼を通し、客体としてではなく、主体として自己実現すること。ここに僕は、熱いエンパワメントのメッセージを感じました。僕は男性中心主義的ジェンダー秩序に対して、「そうではないオルタナティブの可能性」を「百合」や「女同士の親密性」に求めているところがあるので、こういう物語が好きなんですよね……。

(最もそれが舞台女優として「見られる」=客体化される存在になることである意味は考えないといけないと思いますが、まだ上手く整理できていません)

 

 というわけで、レヴューの場面が熱かった、という感想でした。

 

2、舞台少女の「成長」とは何か

  前章の最後で「舞台少女」の「成長」の話をしましたが、「スタァライト」における「成長」の描写がすごく凝っていて、というか凝り過ぎていて、まだ理解が追い付いていないのですが……。自分なりの解釈をしたいと思います。

 映画は最初、トマトが炸裂するシーンから始まります。その後も至るところでトマトをはじめとした作物が象徴的な使われ方をされます。キリンが野菜だったり。あるいは序盤の「皆殺しのレヴュー」で流れた赤い液体は「甘い」らしいので、おそらくこれもトマト?ジュースでしょう。そしてこのトマトが、この物語における「成長」のメタファーっぽいな~と思いながら見ていました。成熟したトマト、成熟した舞台少女……。よくわからない。

 

【以下妄想】

 「再生産」といえばマルクスですね。マルクスによれば主体は労働力として自己呈示し剰余価値を生み出すことで資本を再生産しますが、その剰余価値は主体には手の届かないものとなり、資本主義のシステムを再生産します。この物語でいえば主体は少女たち、自己呈示は舞台少女、剰余価値が「きらめき」、そして剰余価値を享受しシステムを回していたのがキリンです。「アタシ再生産」とは「アタシが(労働力としてシステムを)再生産」することだったんですね。そして舞台少女が産み出し、システムに総取りされた価値の象徴が、キリンが作物から構成されていたように、トマトなわけです。しかし舞台少女として歩き出すことを決意した少女達は、成長を受け入れ、キリンは舞台少女の前で散ります。資本家の転覆、奪われた価値の奪還────少女革命

【妄想おわり】

 

 しかし成長するということは、過去の自分から変容すること、過去の自分を殺すことでもあります。「皆殺しのレヴュー」では、将来の進路を決めた舞台少女たちが殺されて血の雨=トマトジュース=成長のメタファー……を浴び、その後自分の死体と向き合うことで「通過儀礼」としてのレヴューを闘いました。また主人公の愛城華恋も最後のレヴューに赴く際、ジェット噴射で過去の自分たちの姿に決別していました。過去の自分と決別しながら、人生の次の舞台へと向かわねばならない。僕は思春期の少女が自分を殺し続ける冬虫カイコ先生の短編「西に沈む」を思い浮かべながら見ていました。

 

 そしてそれは、時に恐怖を伴うものでもあります。唐突すぎるほど唐突に始まる「皆殺しのレヴュー」のショッキングさ、グロテスクなほど異形と化した作物キリン、まひるとひかりのレヴューにおけるサイケデリックな演出……それらは「成長」に伴う舞台少女たちの不安を、観客である我々に追体験させるものであるように感じられました。あと、映画では今まであまり描かれなかった裏方の女の子が苦悩する場面があったのですが、個人的にはとても胸に刺さりました……。成長することへの不安。重圧。それらは中心となる舞台少女だけでなく、舞台に関わるすべての少女たちが(あるいは我々も)向き合っている、向き合わねばならないのだ、と。


 最後に、この物語の「成長」では、「共にあること」が否定されます。星見純那と大場ななが最後、T字の両端の輝きへと向かった場面に象徴的なように、それぞれのレヴューの果てに、舞台少女たちは決別し、別々の道を歩みます。あるいはひかりと「共にあること」を選択した華恋は死を経験し、その後ひかりとのレヴューで二人の約束の象徴である手紙は燃え、東京タワーは崩れ、華恋は自分だけの舞台=自分だけの人生に進むことを決意します。こういう物語って珍しいというか、今までの女女物語では「共にあること」をこそ志向するものが中心だったと思うんですよね。でもこの物語では、舞台少女たちがそれぞれ自分だけで次の舞台へ羽ばたく。繭の中で一つに溶け合っていた蛹が、蝶へと姿を変えるように……。

 

 舞台少女における「成長」。それは、過去の自分の「再・清算」を繰り返しながら、次のライフステージへと、己の力で羽ばたくこと。そうやって必死に生きろよ、というメッセージを感じました。無論このような(僕の勝手に解釈した)メッセージを、ネオリベ的主体とかガンバリズムの無批判な受容に繋がりうるものではあります(Twitterで見た)。しかしやはり僕は、この物語の持つエンパワメントの側面を高く評価したいと思います。あと僕、愛は重ければ重いほど良いので……。重い愛の想い合い、最高でした……。

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会③「百合アニメ」の認識論

5月某日、百合文化研究会はゼロ年代研究会と合同で、『魔法少女まどかマギカ』の鑑賞会を行いました。
その時に、「まどマギ」の感想を語り合う座談会も行いました。その様子を、何回かに分けてお送りしたいと思います。今回は、「まどマギ」は「百合アニメ」か?という問いを手掛かりに、「百合」の真髄を知る者と知らない者の間で、「百合アニメの認識論」についてゼロから百まで掘り下げていきます!

 

前々回

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会①心中と百合とゼロ年代 - 京都大学百合文化研究会の研究ノート

前回

【ゼロ研×百合文研】まどマギ座談会②まどマギの作品構造―まどマギ世界における「責任」の変化と『ファウスト』イメージ - ゼロ年代研究会

 

登場人物 

レニ【レニ】:百合文研の立ち上げ人。百合がなんもわからんになっている。 

ちろきしん【ちろ】:テン年代に裏切られ続けた絶望から魔女になり、ゼロ研という結界を作った。 

146B【いし】:百合文研の一番槍。漫画評論サークル会長の弁舌やいかに。 

だち【だち】:百合文研の参謀。百合漫画だいたい持ってるマン。 

すず湯【すず】:百合文研にして座談会の紅一点。「まどマギ」のカバンで参戦。 

ゆぅら【ゆう】:ゼロ研からの刺客。哲学とセカイ系に領域展開。 

やまぴ【やま】:ゼロ研からの刺客。ゼロ年代の魔女の使い魔。 

 

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まどマギ」の「百合アニメ」性

【レニ】「まどマギ」は百合アニメか否かという話に移りましょう。今回の鑑賞会、まず1話から9話を見て、翌日に12話までと映画を見ましたが、その時に「まどマギ」の「百合アニメ」性に関して、皆さんがどういう認識をされていたのか聞きたいです。まず、百合アニメに造詣のなさそうなちろきしん君、どうですか?

【ちろ】まず僕は百合を「百合」として見れないというか、何が「百合」なのかっていうのが自分の中での確固たる確信が無いんですよね……。なので何故君達が「百合」に拘っているのかよく分からない。

 【ゆう】同じです。

【ちろ】わけがわからないです。

 【やま】キュウべぇかよ。

【レニ】じゃ次百合の人たちに話を聞きますか。ほむらの感情が明かされていない1話から9話と、ほむらの感情が明かされた10話以降でだいぶ印象が変わると思うんですが、だち君はそのあたりで認識の変化はありましたか?

【だち】うーん……1話から9話までを見て、百合アニメというか、百合だけを押されたら不安が残りますね。1話から9話の時点では、ほむらの動きが確定していないというのもあって。でも、どういう存在なのかはずっと仄めかされていて、気持ちが漏れるシーンもあるじゃないですか、あの描写からは、まあ察することはできる、という。

【やま】百合を察する……?

 【いし】言いたいことはわかる。僕も「まどマギ」は百合アニメであるという認識はしてるんですけど、それは10話以降の展開を知った上で百合だと思ってるんですよ。

【レニ】9話まではそうではないと。

【いし】明確な描写を避けてるじゃないですか。なんなら上条恭介という男がいて、彼とさやかとの関係性を描いたり、明確に女と女だけではない。百合だと言い切るには不純物が多いというのはあるので。

【ちろ】不純物!?

【いし】百合100%って言ったら違うじゃん。

【やま】百合って男がいると百合にならないんですか?。

【いし】物語の中心にさやかの恋愛の話があれば、明確に百合ではないかなと。

【レニ】色んな要素が混じっているから、その百合アニメと称するにはちょっと疑問符が付くっていうことですね。そのあたりすず湯さんとかどうですか。

【すず】でもやっぱり恭介ってただの舞台装置じゃないですか。

【レニ】最初から一貫して女女関係を描いているっていう事も、まあ言えますね。

【いし】ほんとになんかね、なんか身勝手な男……

 【だち】自分が「まどマギ」が百合と断定するに至るのは、10話以降でほむらとまどかの気持ちが結局あの世界を構成しているというのが明かされて、作品全体の一貫性を理解するからで、要するに作品内で関係とか感情とかがどれくらいのウェイトを占めてるかなんですよ。だからその点において1話から9話までは、これを百合として推すかってて言われると違うなと感じました。

【レニ】じゃあそれ以降見たら百合として推せるということ?

【だち】まあ推してもいいですね。

【やま】推してもいい……。

【レニ】なんなんだその距離の取り方は……。

【だち】何だろう、多分これは百合として認識してなかった自分から百合として認識する自分への変化を自分で受け止めてまだいないということではないでしょうか。要するに自分自身の「まどマギ」観のアップデートができていないということです

 

 

杏子とさやかの関係

【やま】質問なんですけど、杏子とさやかの関係っていうのは百合に入るんですか?

【いし】それは僕も悩んでる。百合知ってる人でもあれは悩むと思う。映画だって、あくまで杏子からさやかへのクソデカ矢印があるのであって……。

【やま】えっ、これ片方のクソデカ矢印だけだったら百合になれないんですか?

【いし】それだけを証拠に百合という人もいる、みたいな感じ。

 【やま】僕は1話から9話までを百合って呼ぶかって話で、杏子とさやかの関係があるから百合かなって思うところがあったんですけど。一緒に死ぬって愛じゃないかなって。杏子の一方的な行動ですけど、一方向のそれだけクソデカい矢印があったらもう百合かなって思いました。

【いし】いーや分かるなあ。

【ちろ】希望よりも熱く、絶望よりも深い、愛。

【いし】それは話が違うからね?

【レニ】クソデカ矢印があれば百合、と。

【いし】さやかが魔女化する時に側にいたのも杏子だしね。そういったところ何か思うところあるよね。

【やま】杏子の境遇を考えると、一緒に死ぬ、になるのかもしれない。ずっと一人だっていうのがあるから、本当にさやかしかいないってなってるから。

【すず】杏子からさやかの執着、杏子の挙動が完全にさやかが好きな子のそれですよね。最初に会った時から。

【ゆう】確かに…好きな子にちょっかい出してるのかやっぱり……。

【いし】好きな子にちょっかい出すのが殺し合いになるかよ!

【すず】もうちょっと具体的に言うなら、杏子にとってはやっぱ、自分が捨ててしまった正義を貫こうとしているさやかが、自分が捨てた物を無邪気に掲けてる人間が、気になると言うか目障りと言うか、気になって仕方がないっていう、その関心の向き。あと、最後の方になると杏子にとってさやかは希望ですよね。希望にすがって杏子は無理心中……。無理心中なのかなあ?

【いし】やっぱりさやかから杏子への矢印がうまく見えてこないんですよね。さやかにとって杏子はちょっかい出してくるやつだから。

【やま】でもそれは映画のところであの、なんか、あー……ってなった。

【ゆう】最初嫌なやつ嫌なやつ嫌なやつで、その後に誤解してたごめんってなって、魔女化して、その後拒絶してて、劇場版はてえてえじゃないですか。

【やま】最後杏子からの矢印だけで終っちゃってたのが、映画でさやかが返してくれた、その心残りというか、あーあれが百合なんですね。

【ちろ】双方向性がなかったら百合ではないんですか?

【いし】僕はあると安心するだけで、なくても百合ではあると思います。それはね、関係性がより強固なものなので。1本の糸で繋がるより2本の糸で繋がった方が綺麗じゃないですか

【ゆう】おーすごい詩的なこと言う、すごい良い。

【レニ】縦の糸は貴女、横の糸は私……。

 

 

「百合」って、何?

【ちろ】女性と女性じゃないと百合じゃないっていうのは分かった、双方向じゃなくても百合というのも分かった、でも、女性が女性のことを好きってだけで百合になるの?

【すず】百合じゃないんですか?

【いし】百合ではあると思う。

【だち】広いのでそこら辺をどう扱うかは人によって違うとしか。まあ広いのでとりあえずそれは百合という概念に放り込んでかまわない。

【レニ】「百合」、って何?概念?関係?

 【いし】それは描きかたとか作品による。それがサブストーリーとして描かれたら凄い判断に困るんですけど、その感情を主においていた場合、それは百合です。それは作品によって違うので、境界例になります。

【レニ】「それは百合」っていうのは作品がってことですよね。

【いし】作品に対してです。矢印だけを称して百合というのは僕はなかなか厳しいなと思うところで。断言しづらくってすごく。そういったのはキャラクターコンテンツとかでよくあるかもしれないけれど。その作品に触れたうえで、そういった矢印がどういう作品内でどう扱われているかというのを僕は重視してます。

【レニ】その性質というのは「百合」という言葉でしか表現できないものですか?いろんな女性同士の関係を表す言葉って、友情とか恋愛とかレズビアンとか、色々あるじゃないですか。僕の得意な女学校の話するなら、S とか言われてたわけだけど。それでもなく、百合という言葉でしか表現できない何か。

【いし】百合という言葉でしか表現できない何か、ってすごく難しくないですか?

【だち】自分はそこは、未分化と言うか、その感情を名付ける前の、まだどの感情に属するかを決めかねている状態が百合だという認識です。

【やま】そうなの!?

【だち】多分、確かに分かれた時点では、その感情がはっきりした時点ではそれに名前をつけてしまうことも出来ますけど、感情って不定な、すぐコロコロ変わるものでもあるから、その感情全体というか、未分化だとか不定形だとか、そういう事を考えた呼び方だと思います。

【ゆう】あー。すごくしっくりきてしまった。百合に疎い自分が言うのもなんだけど。名指しっていう我々の通常の社会規範を逃れるその以前のものとしての百合、それはまさに社会規範からの逸脱であり言語というものの以前の萌芽的なもの。なるほど。

【やま】(スマホで調べながら)百合の定義を初めて見たんですけど、「複数の女性の間の何らかの関係性およびそれを描写するもの」……何らかの関係性って。

【いし】それはね、反例を出来る限り出さないためのあいまいな定義だから。

【やま】でもとにかく広い……何らかの関係性……。

 

 

【ゆう】ちなみに僕はほむらと杏子の関係に微妙な良さを感じてしまうんだけど。あのビジネスライクな関係。

【すず】分かります。

【ゆう】ワルプルギスの夜に立ち向かう時も、「叛逆」の映画でも、「あなたはバカじゃない」っていう一定の信頼があるんですよね。戦士同士の絆みたいな。そういうところに良さを感じてしまうのは百合なのかな。どうですか百合の方。

【すず】百合です。

【ゆう】百合ですか。

【すず】私、ほむらとマミも好きなんですよ。

【ゆう】あ~いいっすね~。

【すず】「叛逆」が凄すぎて。ほむら側からの矢印が他の所に向かうっていう。

【レニ】「叛逆」は百合アニメ……というか百合映画だという認識は、ゼロ研の人たちは共有してるんですか?

【ちろ】百合って何なのかやっぱよくわかんないです。

【レニ】ちろきしんは共有してなさそうですね。

【ちろ】ぱっと、これは百合だ!という感覚が僕の中にないです。僕もヘテロラブ作品に出てくる女同士の関係みたいのは好きなんですけど、なんだろうな。

【レニ】「これは百合だ」って名づけるような感覚が受け手の中に有るか無いかって問題なんですかね。

【いし】ゆぅらさんどうですか。

【ゆう】いや何か、皆さんの言ってることは結構わかるんですが……。何というか、僕は百合は「やが君」を通じてしか分からないんだけど、「やが君」の良さは分かるんですよ。でもあの良さとはちょっと違う気がするんだよね

【だち】作品全体を見るか、キャラクターを見るか、みたいな違いかな?

【ゆう】こういう言い方かな。女の子同士の良さはめっちゃ分かる。でも、「百合」ってパッケージされるものの良さはいまいちよく分からないって感じ。だから「まどマギ」が百合的かって言われると、分かんないってなる。そういう感じ。

【いし】百合はあくまで付加価値だから。

【レニ】百合を見出せる人と見出せない人の差がありそうですね。

 

 

野生の百合、庭園の百合、自家栽培の百合

【いし】僕はその違い、ストーリー重視かキャラクターの感情重視かだと思うんですけど、どうなんだろう。

 【すず】私はもうほぼ100%感情なんですけど、何でしょうね、ストーリーで中心的に描かれる感情ももちろん百合ですし……何でしょう。画面の端っこにある百合は百合じゃないのか問題、ありますよね。

【やま】な、なにそれは。

【ゆう】自分の中で似てるなって感覚があって。僕は「叛逆」見る時に、ほむらちゃんの感情にすごい焦点を当てちゃうんですね。それって、物語の構造と密接に関わってるじゃないですか。でも杏子とさやかの関係って、ぶっちゃけどうでも良いというか、ストーリーの錯綜線じゃないですか。つまり、ストーリーの本線の百合と錯綜した百合というか、整備された百合と野放図な百合があるのかと。

【やま】野生の百合……?

【レニ】で、そういう野生の百合がもっと欲しいって人が、同人誌として自分で育てるんですかね。

【だち】野生の百合と庭園の百合と自家栽培の百合がある。

【ちろ】たまに違法なものが出て来る。

【レニ】野生の百合と本線に絡む百合っていうのがあるとしたら、百合を野生の方に見出す人と、本線の百合の方を重視する人では、立場というか認識の違いがありそうだなって気がするんですよね。

【やま】「叛逆」が誰にとっても百合作品っていうのは多分その、整備された百合だからってことですよね。誰も何も言う余地がないというか、もうこれは百合だよって提示されてる。でも、百合をまどマギの1~9話に見出すかは人それぞれで。

【レニ】本線では書かれてないから1話から9話だけ見ると、杏子とさやかの関係に百合を見出せる人は百合だというし、そうでない人は不純物とか言い出す。

【いし】それ化学的な捉え方の比喩で……。

【やま】わかるよ、嫌なイメージはないってことだよね。

【レニ】似たような話で僕の想起したのは「セーラームーン」なんですけど。「セーラームーン」にはセーラーウラヌスセーラーネプチューンという公式カップリングみたいなのがいるんですけど、主人公はセーラームーンなわけですよ。で、ウラヌスとネプチューンの話をもっと欲しがる人は、百合を栽培してコミケで売ってるわけですよね。「セーラームーン」は百合アニメかって言った時に、認識が分かれてくるのかなっていう印象が、実感ではしてます。

【ゆう】なるほど。

【すず】「セーラームーン」は確かに百合じゃない気がする。

【レニ】「セーラームーン」は百合ではない……それはなぜ?

【すず】なぜ……あまり見たことないからあんまり言えないけど…………いや実際に見たら「セーラームーンは百合」とか言い出すかもしれない。

【やま】これは見出す人の感じですね。

 

 

【やま】結局、ゼロ研の人たちがゼロ年代を見出すかどうかにもちょっと似てるような部分はあると思いますよ。

【ゆう】多分ちろきしん君が、だと思う。

【ちろ】だって何見ても勝手に見えてくるんだもん。

【いし】結局嗜好の違いとかそういうところにあるんだろうな。

【ちろ】確かに僕は特に定義もせず「ゼロ年代性」という言葉を使っている……。

【いし】僕は作品を見ながら、百合はどこに散りばめられているかずっと探しながら読んでますね。フィルターとして最初に「あるかないか」っていうのが掛けられます。

【すず】あー。

【だち】あるある。それはある。

【いし】多分ちろきしんさんの場合は、ゼロ年代性があるかないかというフィルターを最初に作った上で、作品をそれを通して見てるんだと思いますよ。

【だち】自分は基本的にその、百合と言われる作品をずっと追って、追って百合を読み続けてきたので、やっぱりフィルターは抱えます。

 【すず】百合か否かを品定めするというよりは何か、普通に漫画読んでたら、突然女女感情が出てきて、うおーみたいな。突然百合が来たみたいな。

【レニ】僕もそれはある。

【すず】でも別にそれが百合漫画というわけではなく。

【レニ】ではなく?

【すず】そういう認識になるわけではなく、この漫画に百合が出てきたなって。

【レニ】それを作品全体に敷衍してこれを百合漫画だと言うことはしないんですね。

【いし】やっぱりフィルターに途中途中で引っかかっても、全体を通して引っかからないとなっていう。本筋に絡むか否かですね。

【すず】それ考えると「まどマギ」は徹頭徹尾どっからどう見ても百合なんですよね。

【レニ】確かに僕も1話から9話を見た時に「これを百合なのか?」ってクエスチョンだったけど、最後まで見るとテクストとして一義的にずっと描き続けてるなっていうのが分かって、確かになって思ったんですよね。

【すず】まあ私は1回見てるので、2回目だと色んな感情が補完されてて、全部最初から百合だったんだっていう。

【だち】自分も漫画から入ってたので大まかなストーリーを把握してたので、アニメ見ながら普通に、初見でしたけど、あっここ伏線なんだなみたいな感じだと思って。

【いし】わかるー。同じことやってた。10話で判明するクソデカ感情嗅ぎ当てちゃうじゃん、1話から9話。

【ちろ】警察犬かな?

 

 

まどマギ」の百合ラインについて

【ゆう】やっぱ気になるのが、「やが君」と「まどマギ」の女同士の関係性が全然違う気がしてて。あるいは「マリみて」「やが君」ラインと「まどか」ラインは全然違う感じがしてて。百合文研の皆さんが、「まどマギ」を百合の中でどういう百合感情に位置づけているのかが知りたいな。

【いし】「やが君」自体が特殊な気がするんだよな。

 【ゆう】あっそうなんですか?

【やま】あれは特殊なんですか?

 【レニ】「やが君」は「百合姫」の作ってきた百合漫画ラインにKAD●KAWAが便乗したんやろ?

【いし】ビジネス的なラインで言ったらそうかもしれないけど!

【ちろ】僕「やが君」の印象としては、なんか一般的な単線型ラブコメって言うかさ、この子とこの子が結びつくって決まってる単線型のラブコメをただ百合にしただけみたいな感じなんだけど。

【レニ】おっ戦争か?

【ゆう】僕の目線だとね、「やが君」から何か、「支配と従属」みたいな影が透けて見えるんだよな。

【やま】支配と従属!?

【ゆう】まだ言語化できてないんだけど。自分の言語化を越えてきたんだよ、「やが君」。

【いし】百合の中には友情からくる独占欲とか普通に描かれるので、そういったものと近しいものはたくさんあると思います。

【ゆう】あーそういう、なるほど失礼。

【だち】それ自体は特殊なものではなくない?

【いし】それはそう。「まどマギ」は別に始めから突き抜けた感情を描いているから、それは違うかもしれない。

【ゆう】別の聞き方をすると、「まどマギ」に類似する百合作品ってあるのかなっていうのを聞きたい。まあ感覚でもいいんだけど。『紫色のクオリア』っていうラノベがあって、それと似てるっていうのは、昔読んでて思った。

【ちろ】確かにあれそういや百合やったな。たしかにあれ「まどマギ」ラインだよね今考えると。ごめん今ゼロ年代研の文脈に無理やり回収しちゃったけど。

【レニ】ラインが見えないんだよなぁ……。

【ゆう】皆さんの「まどマギ」に感じる百合に近い百合の感じって何かあんのかなって。

【すず】『ユリ熊嵐』とかですかね。

【レニ】あー確かに。幾原邦彦ラインはそうかもしれない。「ウテナ」まだ全部見てないけど。

【すず】「ウテナ」ショッキングなアニメですよね。

【だち】なんていうか運命共同体みたいなところまで行っちゃう百合はなかなかない気がしますね。

【レニ】多分「まどマギ」のベースにあるのは「セーラームーン」系の魔法少女アニメで、魔法少女アニメのベースにあるのはホモソーシャル性というか、一緒に戦っていこうみたいな繋がりで、そういうのは、今までの百合漫画が歩んできた少女漫画的な男女の恋愛とか少女の友情とは違うのかなって気はする。

【ちろ】「まどマギ」って「セーラームーン」とか「プリキュア」みたいな、いわゆる女子アニメを深夜アニメの世界に輸入したみたいな感じだと思うんだよね。女子アニメのガワだけ深夜アニメに持ってきた。

【いし】コンセプトだけ持って来てそれを逆手に取る前提だったのかな。

【ゆう】感覚的にはうめ先生、今でこそ「まどマギ」の人だけど、当時は『ひだまりスケッチ』の人だったからさ。ガワが『ひだまりスケッチ』で中が虚淵

【いし】美しいバラのトゲが鋭すぎるんだよなぁ……。