【百合漫画大賞2021レビュー⑧】『安達としまむら』コミカライズから見る百合を描くメディアについての考察

 はじめまして! 当百合文研にたま~に出没する白雪です。百合漫画大賞関連記事は前回からさらに4ヶ月たってようやくの執筆です(なんか最近百合漫画総選挙が出てましたね……。)

 

 ということで、今回は2021年もあと2カ月で終わるというタイミングではありますが百合漫画大賞2021第2位の作品について語っていこうと思います。後で詳しく述べますがライトノベルのコミカライズ作品であるため、その作品の話の内容自体というよりは、メディアごとの表現の違いというところに重点を置いて、思いの向くまま語っていきたいと思います。

 

 ここで前置きを。メディアごとの違いということに焦点を当てる上でも、ストーリー上のネタバレを含む可能性がありますので、その点はご了承いただければ、と思います。また、これは研究会全体というわけではなく、あくまで白雪個人の感想なので、その点にもご留意いただけると幸いです。

 

 まずは後述すると言っていたこの作品の概要について簡単にご紹介しましょう。

 本作品は入間人間先生による電撃文庫刊行のライトノベル作品のコミカライズであり、原作第1巻は2013年に刊行されています(既刊10巻)。メディア展開としては本記事で取り上げるコミカライズに先立って2016年から2017年にかけて、まに先生の作画によるコミカライズがスクエア・エニックスガンガンONLINEで連載されていた(全3巻)ほか、2020年秋クールには手塚プロダクションのアニメーション制作により、アニメ化もされました。そして今回紹介するコミカライズは2019年の9月から『月刊コミック電撃大王』に連載されている、柚原もけ先生によるコミカライズとなります。受賞時点では既刊は2巻まで、この記事を書いている現在までは3巻まで刊行されています。

 私自身、アニメから『安達としまむら』の世界に引き込まれ、原作小説を買い揃えてしまったくらい、アニメ自体については語りたいこともあるのですが、ここではあくまで百合漫画大賞を受賞した漫画を中心に据えてお話していきたいと思います。なお、これ以降、コミカライズ・漫画版という言葉が何回も出てきますが、全て『月刊コミック電撃大王』連載版のことを指すことといたします。

 

 

あらすじ

 ここで、そもそも『安達としまむら』がどういう内容の作品かということについて、簡単にお話したいと思います。本作品は人間関係が苦手で友達なども殆どいない安達と、なんとなく人間関係について冷めきった態度をとるしまむらの2人の女子高生が互いに授業をサボっている中で出会い、お互いの距離を縮めていく、という作品です。あえてジャンル分けするとすると、かなり日常寄りの、それでいてしっかりとした百合作品と言った感じになるでしょうか。

 

 

 

コミカライズのポイント① ストーリーの再構成

 前置きが少し長くなりましたが、ここから2つのポイントに分けて、本コミカライズではどのような点が原作小説やアニメと比較して異なり、他媒体とは違った魅力を放っているのかについてご紹介していきましょう。

 まずコミカライズする上でのポイントとして指摘したいのがストーリーの再構成という点です。アニメ化・コミカライズ化両者に共通して言えることですが、ライトノベルは多媒体に比べて分量が非常に大きく、そのまま忠実にすべてを映像化・コミカライズ化することはなかなかないです。尺の都合上カットせざるを得ないとなると、*1やはりどこを使って、どこを切り捨てるか、そしてどのように前後を繋げるかということが腕の見せ所になります。

 

 そんな中、柚原もけ先生によるこのコミカライズは非常にうまくやっているという印象を受けました。原作を知っている私からしても受け入れやすい再構築が行われていました。驚くべきことは、そのように受け入れやすいのにも関わらず、安直に原作を忠実になぞっているどころか、このコミカライズは(少なくとも1巻と2巻は)原作小説単行本1巻分の内容をコミカライズ単行本1冊でまとめているという点です。私自身は他の会員の方とは異なり、あまり漫画に読み慣れているわけではないのでライトノベル1冊をコミカライズするのに漫画何冊必要なのか、ということについては疎いのですが、漫画1冊でライトノベル1冊分を描き切るのはなかなか珍しいと思います。

 

 もちろん、そのように大胆なことを行っているので、コミカライズでは原作を忠実になぞっているというわけではなく、例えば(原作小説・コミカライズともに)2巻では、安達としまむらがそれぞれに告げずに相手に贈るクリスマスプレゼントを考える、というシーンが安達サイド・しまむらサイドの双方から描かれるのですが、それを思い切って準備段階では安達サイドに絞る、などは行われているのですが、大きくカットしたエピソードの中でも要素要素が残されたエピソードに織り込まれて回収されていることも多く、原作のどの部分が描かれていないから整合性が付かない、ということもなく、非常にまとまりがいいです。更に、このコミカライズはカバー下に4コマ漫画が描かれているのですが、原作小説本編にちりばめられた小ネタのいくつかはその4コマ漫画の中でカバーされているのも原作勢として、地味に嬉しかったです。

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柚原もけ『安達としまむら①』裏表紙カバー下より

 

 

 

 

 

コミカライズのポイント② 原作の描写との比較

 『安達としまむら』の1番の魅力、それは人によっていろいろな考えがあると思いますが、私自身が考える1番の魅力は主人公の安達・しまむらの心情描写の丁寧さにあります。人付き合いに対する向き合い方が2人とも特殊な分、特別な間柄になる安達もしくはしまむらに対して、それぞれいろいろなことを考えます。その心理描写が丁寧に丁寧に描かれているのです。

 

 柚原先生によるコミカライズは、漫画として読みやすいようにまとめながらも、その『安達としまむら』最大の魅力を読みづらくない範囲で両立していることもまた、この作品の特徴なのです。もちろん、原作が大分心情描写が丁寧な分、全てが反映されているわけではありませんが、このコミカライズ版でも十分、『安達としまむら』の描写の美しさを感じとることができると思います。

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柚原もけ『安達としまむら』1巻27頁

 

 ただ、漫画版がアニメ版や原作よりも、描写という点に関して押しに欠ける部分も確かにあると思います。ここでは聖地の描写を例にとって原作・アニメ・漫画を比較していきましょう。

 聖地の描写というと、全てを映像として描写する分、アニメというメディア形態が一番表現しやすいと考えられると思います。それに対し、小説は文字が基本なので具体的な聖地については描写しにくい、とも一見思われます。しかし、『安達としまむら』の原作小説のすごいところは聖地に関する描写もしっかりと書き込まれている点にあります。例えば、本作品ではどのメディアでも共通してショッピングモール(モレラ岐阜)が頻繁に登場するのですが、原作小説ではショッピングモールの店の配置が安達の視点から丁寧に書かれ、私が3月に実際にそのショッピングモールはこのページで安達が歩いたのはどこなのか、小説の描写を基に探して歩くのが楽しかったことを今でも記憶しています。

 それに対して、漫画という媒体は(ゆるキャン△など聖地を描くことが物語の大きいウェートを占める作品でない限り)聖地の描写はしづらいメディアなのかな、と思われました。コマの大きさにはもちろん限りがあり、基本的には登場人物を描写することがメインとなるので、なかなか難しいところがあると言えそうです。

 

 このように、読みやすいかつ魅力が詰まっているため、サクッと読める漫画に対し、聖地巡礼という楽しみ方にはアニメと原作小説に軍配が上がるなど、楽しみ方によってメディアを使い分けたり、複数使ったりする、というのも1つの手なのかもしれませんね。

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安達としまむら』で頻繁に登場するモレラ岐阜(2021年3月 筆者撮影)

 

 

 

 

 

 

コミカライズのポイント➂ 解釈の違い

 最後に、コミカライズのポイントとして指摘したいのが、漫画なので当然といえば当然ですが、連続してイラストが描かれることによって漫画というものが成り立っているため、原作小説ではどんな表情をしているのかがわからない部分の安達・しまむらの表情もイラストとして描写されているという点です。アニメでももちろん全編映像ですから同じことは言えるのですが、漫画はどんどん移り変わっていくわけではなく、1つ1つの表情を留めた状態で描いており、読み手も自分のペースで読めるため、私も読み進める中で所々、自分がライトノベルを読んで想像していた表情と異なる点について、見逃すことなく読み進めていきました。

 

 このように比較しながら読み進めていくと、柚原先生の『安達としまむら』の解釈と、私達受け手の解釈が微妙に異なる部分がある、ということです。原作小説2巻の「しまむら ジムへ行く」というエピソードの1シーンを取り上げてみましょう。

 このエピソードでは、しまむらは安達の母親に偶然出会い、そこで母親が安達のことをよく言っていなかったのに少しむっとして、安達の母親に訂正を求めるシーンがあります。この部分の描写について、アニメ版のしまむらは安達のことを悪く言われてむっとしながらも、そこまで感情を表に出していないような印象を受けました。しまむらは人間関係に対する感情がフラットな部分が大きく、私もアニメ版の解釈に近いです。それに対し、漫画版はより感情を表に出しています。安達のことを特別に思っている故にこのような行動に出たのだと納得でき、こちらも自然に受け入れられます。

 このシーンについて、どちらの解釈が正解、ということはないのだと思います。漫画版1巻のあとがきを読む限り、原作者の入間人間先生はかなり自由に柚原先生に委ねているようなので、入間人間先生公認でどちらの解釈も正解、と言えるのだと思います。漫画版とアニメ版、そして原作小説を読んで私達が感じる解釈。そのどれもが微妙に異なることがありえ、その解釈の違いを感じながら読むことでより深く作品について考えることが出来るのではないかなと感じました。

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上 アニメ『安達としまむら』第4話 制服ホリデイ   下 柚原もけ『安達としまむら』2巻41頁

 

 

 

 

 

 

終わりに

 以上、白雪の筆が赴くままつらつらと書かせていただきました。特にコミカライズに読み慣れている方はそんなの当り前じゃないかと思われた方も多いかもしれませんが、そうだとしたら申し訳ない限りです……。

 

 それでも、最後に表題にかえって、まとめとして百合作品を描くメディアとしてはどれがふさわしいのかということについて私なりの意見をまとめてこの稿を終えたいと思います。

 

 最後の最後になって唐突ですが、百合を描いた作品の特徴の1つとして、特別な関係になる2人の心情描写というのが通常の男女の恋愛作品よりも重要になってくる、というのが私の自論としてあります。女性同士の恋愛は普通じゃないとされていた時代が長かったからこそ、異性間の恋に比べて、なぜ相手が好きなのかが掘り下げられることや、特別な関係になっていく過程の描写が精密な作品が多いように感じます。

 

 でも、それらを表現するもの、と一口に言っても、これまたいろんな手段があります。直接的な言葉による描写かもしれないし、表情による示唆かもしれないし、もしかしたらそこにBGMを加える、と言った描写もあるかもしれません。その全てが1つの好きになっていく過程という1つの現象に起因しているため、つながっている。その全てを一度に描写できるメディアなんてなく、その描かれなかった要素に関しては解釈がいくつか存在しうる。そう言った解釈を示してくれるのが異なるメディアであり、他のメディアに触れることであるメディアに触れた時に自分の思っていたものと違う解釈に出会うことができ、他の解釈を知ることによって、より”恋”だとか”友情”だとかの現象の解釈について思索を深めていくことができる。

 

 今回主に扱ったのは解釈という点でしたが、勿論作品を解釈するためだけに私達は享受しているのではなく、例えば聖地巡礼だとか、楽しみ方も他にいろいろあり、それに適したメディアもあれば、1つのメディアだけではなく、複数のメディアから見ることでよりその楽しみ方も深まっていくこともある。結局はどのメディアが一番表現方法として適しているとは言えないし、1つのメディアに固執してては見えない世界もあるのだと思います。なので、これを契機に1つの作品について(メディアの種類的にも)多角的に捉えられるようにしていきたいと自戒しつつ、この稿を終わりにしたいと思います。

 

 

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。本当に最後になりましたが、『安達としまむら』は原作小説も、今回メインで紹介した漫画版も、アニメ版も、いずれもクオリティの高いものなのでもし少しでも興味があったら触れやすい媒体から触れてみてください。きっと後悔しないと思います。

 そして、1つの媒体でしか『安達としまむら』に触れたことのない方も、これを契機に他のメディアを通じて、『安達としまむら』についてより深く楽しむ一助となれば幸いです。

*1:漫画版1巻あとがきで柚原先生自身も、尺と登場人物の深みを増す描写を盛り込むことのバランスについて葛藤されていたようです。