【百合文献検討会】「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して― 

書誌情報

田原康夫,2019,「「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して―」,身体表象(2),21-47.

 

・BLと百合はいわゆる「オタク文化」に内在する広義の「同性愛」表象として対比的に認識される。

・また「当事者性の希薄さ」が共通している。百合も「非レズビアンの立場から作られた非ポルノの女性同性愛(あるいはそれに類するもの)のストーリーとイメージ」(中里2002)と定義されることがあるように、現実社会の女性同性愛者とは必ずしも連続しない。

異性愛男女が「同性愛」表象を嗜好する理由として、「対等性」が指摘されている。熊田(2005)の議論は、BLと百合が読まれる理由の共通性を示唆している。

・共通性を持ちつつも明確に区別されたBLと百合を、具体的に比較した論考はほとんど存在しない。→本稿の射程

 

1、カバーイラストの分析

・分析対象:『はじめての人のためのBLガイド』および『百合の世界入門』に掲載された作品。漫画作品の「顔」である、単行本のカバーイラストに注目し、カバーイラストに2人の人物が描かれた百合作品101点、BL作品85点を分析。

・分析方法:メディアにおける権力構造の表現の類型を提示した、ゴフマン及び上野千鶴子の「服従儀礼化」を枠組みとして、二人の人物の構図を①上下の位置関係、②前後の位置関係、③スキンシップの様態、に分類。

 

①上下の位置関係

・BL、百合ともに、上下の位置関係によって人物間の権力構造をはっきりと示すカバーイラストが散見された。またこの上下関係は、性的な含意をはっきり帯びる場合もあった。

 

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②前後の位置関係

・「後ろから抱きしめる」構図において、権力構造が表象されうる。この構図においては、前面の人物が背後の人物に抵抗することが難しい一方、背後の人物は前面の人物に思うままに触れられるのである。

・このような構図は、BLにも百合にも共通して存在した。

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―図2において、「調理(生ハムを切りわける)」と「給仕――すなわち与えられたものを受け取るだけの作業――」が「権力関係」として示されているが、これは本当に「権力関係」なのか?また作中では「下」のほうが「姉」なのだが、テクストの内容との整合性はどう捉えているのか。

 

③スキンシップの様態

・スキンシップが描かれたカバーイラストは、BL51点、百合65点と半数以上。スキンシップの在り方(それが一方向的か、双方向的か)によって、示唆される権力関係に差異が生じる。

・新たに、スキンシップの描かれ方に基づいた分類を試みる。

・相手に触れようとする際に最も能動的に行使される「手の平」が、相手のどこに触れているかに注目。スキンシップのうち、片方の人物のみが相手に「手の平」で触れ(ようとし)ている「一方的スキンシップ」は、BLが67%、百合が49%だった。

 

・両者の傾向として、BLは手が大きく、細かく描き込まれる一方、百合は手が小さく、デフォルメされて描かれる傾向があった。

 ・これはジェンダーイメージに基づく男女の描き分けの他にも、BLのカバーイラストが「手」の表現によって権力関係即ち主体-客体の関係を読者に明確に伝えようとしているためだと考えられる。

 例①:『魅せる BL を描くための手足の絡み表現 230』

 …つかむ手に「関節と指を太くし男らしい印象」を与え、つかまれているほうの手に「関節と指を細くして、華奢な印象」を与えている(図13)

 

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 例②:触れる側の人物が見切れ、手のみが描かれる特異な構図(図14-16)

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― ジャンル性のほかに、描き手の性別にもよるのではないか。女性は手の描写に注目する傾向があるという話がある(らしい)が、BLの描き手はほぼ女性、百合の描き手は男性も女性もいる、という状況ならば、どこまでがジャンル性に起因するかは分からないのでは。「きらら系」などと比較してみると、何かわかったり…?

 

 

・一方、百合では、「四肢」へのスキンシップ、特に「手の平」へのスキンシップ=「手をつなぐ」構図が描かれたカバーイラストが、BLに比べて圧倒的に多い。(表1,2)

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―こんなにはっきり違うのか……意外。

 

・「手をつなぐ」構図は、①相手の許可が無ければ難しいため、一方的に「つかむ」構図とは違い、そこに合意が形成されていることを印象付ける、②互いに主体性が発揮される行為であり、主体-客体関係を読み取るのが困難になる/弱体化する、という点において、二人の人物の対等性を読者に印象付けているといえる。

 

【まとめ】

・BLと百合は、構図によって二人の権力関係を示そうとする点で共通していた。しかし、「手」の描写に限れば、BLは行為の主体-客体の非対称性を、百合は行為の対象性を表現しようとしていた。

 

2、物語の「枠組み」における共通点と差異

・BL/百合のファンは、既存のマンガやアニメに描かれるキャラクターの関係性を同性愛的に「解釈」し、それらの作品のパロディを作るという慣習を共有しており、それは「カップリング」および「受け攻め」という概念によってシステム化されている。

・先述の表現上の差異は、「カップリング」と「受け攻め」という、共通の物語の「枠組み」に対するファンの姿勢と関連していると考えられる。

 

◎共通性について…

やおい・百合の二次創作では、原作から任意の二人を選び組み合わせる「カップリング」が行われる。

・BL・やおいでは、決定された「カップリング」に対し「受け攻め」が割り振られる。これは単なる性行為の役割だけでなく、キャラクターの人物類型をも規定する。「受け攻め」概念は、ジャンルにおけるお約束=「枠組み」として共有されている。これは百合にも応用可能である。

・前章でみたカバーイラストの権力関係は、「受け攻め」というジャンルの「枠組み」を表現しようとするものである。カバーイラストは読者に対し、その作品が帰属するジャンルを伝達するとともに、読者が共有する「枠組み」にアクセスすることで、物語展開への期待を喚起している

◎差異について…

やおいファンにとって「受け攻め」の割り振りは極めて重要である。一方、百合においては「受け攻め」は曖昧であるとされ、百合ファンはカップリングにおける受け攻めの役割分担にこだわりなくそれらの作品を享受していると考えられる。

BLファンにとって二者の「位置」は交換不可能であるのに対し、百合ファンにとってそれは交換可能なのであり、この嗜好の差異がカバーイラストに関わっている。

・では、なぜこのような嗜好の差異が存在するのか。

 

3、関係性の成就のために

・BLでは、物語が読者である異性愛女性の理想的な「ファンタジー」として機能する必要があり、物語の結末に関係性が「成就」した「象徴」として、アナルセックスの描写が用意されている。そのため、性行為においてどちらが「攻め」でどちらが「受け」であるかが不可逆的に確定される。

・また読者が「攻め」と「受け」に求めるものは、明確に異なっている。そのためBL・やおいファンにとって「受け攻め」に伴う非対称な役割分担にこだわる。

 

・百合において、BLのような「棒と穴」の「結合」によって関係性の「成就」を演出することは不可能である。またそもそも百合は必ずしも恋愛関係にあることを必要条件とせず、加えて読者の性別構成も男女相半ばしている。従って、百合は特定の読者層を措定することも、物語られる関係性の質を限定することもできない

・ならば、百合作品において女性同士の関係性の「成就」は、性行為以外の「何か」によってなされているはずである。

・とはいえ、女性同士の関係性の「成就」は、既にカバーイラストに示されている。即ち、「手をつなぐ」という行為そのものではないだろうか

 

―確かにそうかもしれない……という実感はある一方で、議論をレトリックによって進めているのではないか?という感じも否めない。次に示される例も、実証したい事柄に対してかなり特殊なものを持って来ている感じはある。実際に関係がいかに「成就」したのかを全部見てみるとかした方がよさそう。最も筆者自身、限界として認めれている点ではあるが。

 

「手をつなぐ」行為が重要な機能を担う例として、磯谷友紀『魔女の魔笛』(新書館、2013)

―一見したところ一方的なスキンシップが、中央コマ前後での位置関係のねじれにより、同時に双方向的なスキンシップにも見える。そしてこの攪乱的演出は、主体の好意と同時に、客体の潜在的な好意も示している。

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またこのような対称性はしばしば、構図の上でも提示される。「結合」ではなく「接合」

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―こういう構図、確かによく見る。 

 

◎関係性のメッセージ

○BLの「結合」:主体-客体の区別を強化する。

・BLにおいては、「攻め」の愛情が「受け」に受け入れられるとき、両者に永遠が訪れるという「永遠の愛の神話=究極のカップル神話」がある。

・典型例として、「レイプ」展開-〈受け〉は〈攻め〉 の愛に気づき、彼の行為を許し、自分もまた〈攻め〉への愛を自覚し、相思相愛にいたる。

「『受け』と『攻め』というキャラクター類型を基軸とするBLに描かれる関係性は、強固な権力関係を前提としているのである」

 

○百合の「接合」:主体-客体の区別を弱体化する。

・「手をつなぐ」ことは、双方の主体性を前提とし(手をつなぎ合わなければならない)、また常にその持続可能性が問われる(手をつなぎ続けなければならない)。

・このような関係性は、固定的な関係性を描くBLと異なり、「永遠」のない、はるかに流動的な関係性である。

「百合が描く関係性は名づけられず、認識できない、常に流動する関係性なのである」

・関係性に名前を与えられないということは、既存のいかなる概念によってもそこに営まれている関係を「保証」することができず、関係性の成否は当事者にのみ託されているのである。そのような関係性は、他者に対する信頼によってのみ達成されるのだ。

 

―ギデンズ『親密性の変容』を参考しているのかと思ったら、していなかった。〈純粋な関係性〉じゃん……。

―明確に「恋人」とされないような作品で、その二人が作中でなんと表現されているのかは、調べたら面白そう。「大切な人」「大好きな人」をよく見る気がする。

―創作者側の視点として、BLは「結合」という終着点にいかに進んでいくかを考える一方、百合は「女の子が二人」という出発点から展開していくのでは。

 

4、結論と展望

○BL

異性愛女性のための、性的要素を含んだ恋愛物語

・「受け攻め」の固定的役割分担に基づく、棒と穴の「結合」による関係性の「成就」

・永遠の関係性への欲望を含意する

 

○百合

 ・読者層も、物語内容の定義も曖昧

・「受け攻め」の役割は固定的でなく、手と手の「接合」による関係性の「成就」

・流動的な関係性を持続させようとする欲望を含意する

 

―確かに、「いまここ」を強調する百合作品は多い気がする。逆に『ふたりべや』みたいに時間経過をはっきり描く作品は少ない気がする。

―闘争や権力といった男性性のイメージ、共感や協働といった女性性のイメージが、それぞれの作品の性質を規定している?

 

 ・この違いは、両ジャンルが共有する物語構造の「お約束」の違いによってもたらされるものであると推測される。

・またこの違いは、近代社会における「ロマンティック・ラブ」の両輪なのではないだろうか。→BLの「百合的」関係、百合の「BL的」関係の可能性。端緒として、ヤマシタトモコ作品:二人が永遠の「対」として結ばれる「ハッピーエンド」に対して距離を取っている。