【劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト】舞台少女の熱量と成長

(書いた人:レニ)(多分ネタバレしかない)

 

すごいものを見てきました……『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』……

 僕も遅ればせながら先程スタァライトされてきました。サークル的にはアニメ鑑賞会はまだなのでフライングスタァライトになりますが、何かとんでもないものを目撃したので、見た直後のフレッシュな心のままに、少女達の熱さに焼き殺された心のままに、レビューを書き遺しておきたいと思います。とはいえ個別のキャラやシーンの良さみの深さをいちいち語るには、この余白はそれを書くには狭すぎるので、ここでは舞台少女の「熱量」と「成長」という2つのトピックについて書いていきます。

 

1、舞台少女のレヴューはなぜ「熱い」のか?

 タイトルにも冠されている、本作の最大の見所「レヴュー」。舞台少女たちの熱い想いがぶつかり合うその熱量に、僕の心も劇中のキリンと同様に焼き殺されました。なぜ「レヴュー」はこれほどまでに「熱く」、見た者の心を動かすのか?こういうことを分析するのは野暮だとは百も承知ですが、自分なりに3つの要因を考えてみました。

 ①「ライバル」という関係性

 ②「舞台」という設定

 ③「通過儀礼」という位置づけ

 

1,1 「ライバル」という関係性

 「顔の良い女の子が全力で競い合うのは良い」というのは皆さん『ウマ娘』で予習済みとは思いますが、この物語の舞台少女たちも、「トップスターになる」という同一の目標を目指し、時に助け合い、時に戦いあい、切磋琢磨しながら成長していく「ライバル」として表象されます。男同士のライバル関係は数あれど、女の子同士のこういうライバル関係って独特の良さがありますよね……。この「良さ」って何なんだろうと考えたとき、自分の中で近い感覚ってスポーツ少女漫画なんですね。『サインはV!』『エースをねらえ!』みたいな。

 これを手掛かりに考えていくと、ここで表象されているのが「極度に純化されたホモソーシャリティ」であることに気付きます。「ホモソーシャルな絆」は現実の世界では同性愛嫌悪と女性嫌悪を内包した男同士の絆とされがちですが(セジウィックとかの議論)、少女達を主人公にしたスポーツ少女漫画ではそういう現実の社会規範をすっとばして、純化した女性同士のホモソーシャリティによる親密性を描き出すことができ、それが「ライバル」という関係性に結実するわけです。同性だけの空間で、同じ目標を目指し、助け合い競い合い認め合い求め合いながら、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話する、「ライバル」という独特の親密性……。そして、これってそのまま「レヴュー」なんですよね。スポーツ、レヴュー、いずれも熱いバトルの中で、「ライバル」という、極度に純化されたホモソーシャリティに支えられた少女同士の熱い絆を描くことができる設定なのです。映画の中でも真矢とクロディーヌが愛を告白しあいながら戦っていてあああああああ~~~~となりました。

 

余談ですが先日、「バキは百合」という引用ツイートがたくさんきました。これもホモソーシャリティと親密性の結びつきの例でしょうか。

https://twitter.com/KU_yuribunken/status/1414870424316301314?s=20

 

1,2 「舞台」という設定

 この「レヴュー」の熱量をさらに増幅させるのが、それが「舞台」であるということです。これには「言葉で演じる」ことと「舞台装置を出す」ことの2つの側面があります。

 まず「言葉で演じる」ことについて。唐突ですがここでHIPHOPの話をします。僕は今は無き『フリースタイルダンジョン』という番組が好きだったのですが、好きなMCバトルの1つに般若vsR指定があります。今まで番組のリーダーを張っていた般若がトップを退き、後輩のR指定にその座を明け渡すという、いわば襲名式を、MCバトルで行ったんですよね。それがまあ熱くて、互いのリスペクトや感謝がぶつかり合って出演者全員感動で号泣、みたいな。このバトルに関して、審査員だったラッパーのKENTHE390が「素の言葉で言うとめちゃめちゃクサくて聞いてられないけど、HOPHOPに昇華させることでその熱量が全部伝わってくる」みたいなコメントをするんです。んで話を戻すと、映画のレビューの場面を見てるとき、僕の脳裏でずっと般若vsR指定がダブってました。日常の言語ではどうしても扱えないような感情の重さの会話でも、舞台のセリフに昇華させることで、その熱量を全部伝えることができるし、その中で本音がマジトーンで吐き出されると、コントラストで一層感情が強調される。個人的には香子と双葉のレヴューが好きです。

 次に「舞台装置を出す」ことについて。レヴューでは舞台少女の感情に応じて象徴的な舞台装置が出てきて、その熱量を最適な形で演出し、増幅させていきます。しかも謎空間で行われているから何でもアリ。そういった舞台装置の使い方がとても印象的でした。「通過儀礼」としての決闘にイマジナリーな領域を設定し、それに応じた舞台装置でそれを彩るのは、おそらく「ウテナ」のオマージュ(決闘ごとに名前があり、胸の薔薇を散らした方が勝者で、最終勝者が世界を革命する)で、最近だと「シンエヴァ」もやってた手法ですが、にしても映像技術の凄さと発想のぶっとび方で、レヴューを極めて緊張感と躍動感と面白さあふれるものにしていました。レヴュースタァライト半端ないって。突然デコトラで突進するとか、オリンピック始めるとか、東京タワー吹きとばすとか、そんなんできひんやん、普通。

1,3 「通過儀礼」という位置づけ

 「レヴュー」の中で舞台少女たちは、自分の全てをさらけ出し、相手と真正面から向き合い対話し、その中で自他を見つめ直していきます。要するに「レヴュー」とは舞台少女にとって、成長するための通過儀礼なわけです。

 「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは何か。「成長」は近代以降、様々な物語の主題となってきました。しかしそれは、ビルドゥングスロマンの古典であるゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が理想的な「市民」として主体を確立する物語であったように、主として男性的なテーマとして語られてきた側面は否めません。一方で「少女」についてはどうか。そもそも「少女」というカテゴリーが登場したのは明治期の女学生の登場に伴うものですが、戦前において「少女」の「成長」とは、良妻賢母規範を守らなくてもよい「女学校」というモラトリアムを離れ、結婚して「妻」となることでした。また戦後になると、主に少女漫画の世界で、少女の成長とは恋愛を経験して「おとなになる」ことを意味するようになっていきます。「少女」にとっての「成長」「通過儀礼」とは、「恋愛」や「結婚」といった男性中心主義的ジェンダー秩序に取り込まれ客体化されることとして表象されてきたといえます。

 しかし、「舞台少女」にとっての「通過儀礼」とは「レヴュー」であり、「成長」とは「トップスターになること」、つまり「理想的な『スター』として主体を確立すること」にあります。「レヴュー」という通過儀礼を通し、客体としてではなく、主体として自己実現すること。ここに僕は、熱いエンパワメントのメッセージを感じました。僕は男性中心主義的ジェンダー秩序に対して、「そうではないオルタナティブの可能性」を「百合」や「女同士の親密性」に求めているところがあるので、こういう物語が好きなんですよね……。

(最もそれが舞台女優として「見られる」=客体化される存在になることである意味は考えないといけないと思いますが、まだ上手く整理できていません)

 

 というわけで、レヴューの場面が熱かった、という感想でした。

 

2、舞台少女の「成長」とは何か

  前章の最後で「舞台少女」の「成長」の話をしましたが、「スタァライト」における「成長」の描写がすごく凝っていて、というか凝り過ぎていて、まだ理解が追い付いていないのですが……。自分なりの解釈をしたいと思います。

 映画は最初、トマトが炸裂するシーンから始まります。その後も至るところでトマトをはじめとした作物が象徴的な使われ方をされます。キリンが野菜だったり。あるいは序盤の「皆殺しのレヴュー」で流れた赤い液体は「甘い」らしいので、おそらくこれもトマト?ジュースでしょう。そしてこのトマトが、この物語における「成長」のメタファーっぽいな~と思いながら見ていました。成熟したトマト、成熟した舞台少女……。よくわからない。

 

【以下妄想】

 「再生産」といえばマルクスですね。マルクスによれば主体は労働力として自己呈示し剰余価値を生み出すことで資本を再生産しますが、その剰余価値は主体には手の届かないものとなり、資本主義のシステムを再生産します。この物語でいえば主体は少女たち、自己呈示は舞台少女、剰余価値が「きらめき」、そして剰余価値を享受しシステムを回していたのがキリンです。「アタシ再生産」とは「アタシが(労働力としてシステムを)再生産」することだったんですね。そして舞台少女が産み出し、システムに総取りされた価値の象徴が、キリンが作物から構成されていたように、トマトなわけです。しかし舞台少女として歩き出すことを決意した少女達は、成長を受け入れ、キリンは舞台少女の前で散ります。資本家の転覆、奪われた価値の奪還────少女革命

【妄想おわり】

 

 しかし成長するということは、過去の自分から変容すること、過去の自分を殺すことでもあります。「皆殺しのレヴュー」では、将来の進路を決めた舞台少女たちが殺されて血の雨=トマトジュース=成長のメタファー……を浴び、その後自分の死体と向き合うことで「通過儀礼」としてのレヴューを闘いました。また主人公の愛城華恋も最後のレヴューに赴く際、ジェット噴射で過去の自分たちの姿に決別していました。過去の自分と決別しながら、人生の次の舞台へと向かわねばならない。僕は思春期の少女が自分を殺し続ける冬虫カイコ先生の短編「西に沈む」を思い浮かべながら見ていました。

 

 そしてそれは、時に恐怖を伴うものでもあります。唐突すぎるほど唐突に始まる「皆殺しのレヴュー」のショッキングさ、グロテスクなほど異形と化した作物キリン、まひるとひかりのレヴューにおけるサイケデリックな演出……それらは「成長」に伴う舞台少女たちの不安を、観客である我々に追体験させるものであるように感じられました。あと、映画では今まであまり描かれなかった裏方の女の子が苦悩する場面があったのですが、個人的にはとても胸に刺さりました……。成長することへの不安。重圧。それらは中心となる舞台少女だけでなく、舞台に関わるすべての少女たちが(あるいは我々も)向き合っている、向き合わねばならないのだ、と。


 最後に、この物語の「成長」では、「共にあること」が否定されます。星見純那と大場ななが最後、T字の両端の輝きへと向かった場面に象徴的なように、それぞれのレヴューの果てに、舞台少女たちは決別し、別々の道を歩みます。あるいはひかりと「共にあること」を選択した華恋は死を経験し、その後ひかりとのレヴューで二人の約束の象徴である手紙は燃え、東京タワーは崩れ、華恋は自分だけの舞台=自分だけの人生に進むことを決意します。こういう物語って珍しいというか、今までの女女物語では「共にあること」をこそ志向するものが中心だったと思うんですよね。でもこの物語では、舞台少女たちがそれぞれ自分だけで次の舞台へ羽ばたく。繭の中で一つに溶け合っていた蛹が、蝶へと姿を変えるように……。

 

 舞台少女における「成長」。それは、過去の自分の「再・清算」を繰り返しながら、次のライフステージへと、己の力で羽ばたくこと。そうやって必死に生きろよ、というメッセージを感じました。無論このような(僕の勝手に解釈した)メッセージを、ネオリベ的主体とかガンバリズムの無批判な受容に繋がりうるものではあります(Twitterで見た)。しかしやはり僕は、この物語の持つエンパワメントの側面を高く評価したいと思います。あと僕、愛は重ければ重いほど良いので……。重い愛の想い合い、最高でした……。

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会③「百合アニメ」の認識論

5月某日、百合文化研究会はゼロ年代研究会と合同で、『魔法少女まどかマギカ』の鑑賞会を行いました。
その時に、「まどマギ」の感想を語り合う座談会も行いました。その様子を、何回かに分けてお送りしたいと思います。今回は、「まどマギ」は「百合アニメ」か?という問いを手掛かりに、「百合」の真髄を知る者と知らない者の間で、「百合アニメの認識論」についてゼロから百まで掘り下げていきます!

 

前々回

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会①心中と百合とゼロ年代 - 京都大学百合文化研究会の研究ノート

前回

【ゼロ研×百合文研】まどマギ座談会②まどマギの作品構造―まどマギ世界における「責任」の変化と『ファウスト』イメージ - ゼロ年代研究会

 

登場人物 

レニ【レニ】:百合文研の立ち上げ人。百合がなんもわからんになっている。 

ちろきしん【ちろ】:テン年代に裏切られ続けた絶望から魔女になり、ゼロ研という結界を作った。 

146B【いし】:百合文研の一番槍。漫画評論サークル会長の弁舌やいかに。 

だち【だち】:百合文研の参謀。百合漫画だいたい持ってるマン。 

すず湯【すず】:百合文研にして座談会の紅一点。「まどマギ」のカバンで参戦。 

ゆぅら【ゆう】:ゼロ研からの刺客。哲学とセカイ系に領域展開。 

やまぴ【やま】:ゼロ研からの刺客。ゼロ年代の魔女の使い魔。 

 

f:id:KU_yuribunken:20210509074743p:plain

 

まどマギ」の「百合アニメ」性

【レニ】「まどマギ」は百合アニメか否かという話に移りましょう。今回の鑑賞会、まず1話から9話を見て、翌日に12話までと映画を見ましたが、その時に「まどマギ」の「百合アニメ」性に関して、皆さんがどういう認識をされていたのか聞きたいです。まず、百合アニメに造詣のなさそうなちろきしん君、どうですか?

【ちろ】まず僕は百合を「百合」として見れないというか、何が「百合」なのかっていうのが自分の中での確固たる確信が無いんですよね……。なので何故君達が「百合」に拘っているのかよく分からない。

 【ゆう】同じです。

【ちろ】わけがわからないです。

 【やま】キュウべぇかよ。

【レニ】じゃ次百合の人たちに話を聞きますか。ほむらの感情が明かされていない1話から9話と、ほむらの感情が明かされた10話以降でだいぶ印象が変わると思うんですが、だち君はそのあたりで認識の変化はありましたか?

【だち】うーん……1話から9話までを見て、百合アニメというか、百合だけを押されたら不安が残りますね。1話から9話の時点では、ほむらの動きが確定していないというのもあって。でも、どういう存在なのかはずっと仄めかされていて、気持ちが漏れるシーンもあるじゃないですか、あの描写からは、まあ察することはできる、という。

【やま】百合を察する……?

 【いし】言いたいことはわかる。僕も「まどマギ」は百合アニメであるという認識はしてるんですけど、それは10話以降の展開を知った上で百合だと思ってるんですよ。

【レニ】9話まではそうではないと。

【いし】明確な描写を避けてるじゃないですか。なんなら上条恭介という男がいて、彼とさやかとの関係性を描いたり、明確に女と女だけではない。百合だと言い切るには不純物が多いというのはあるので。

【ちろ】不純物!?

【いし】百合100%って言ったら違うじゃん。

【やま】百合って男がいると百合にならないんですか?。

【いし】物語の中心にさやかの恋愛の話があれば、明確に百合ではないかなと。

【レニ】色んな要素が混じっているから、その百合アニメと称するにはちょっと疑問符が付くっていうことですね。そのあたりすず湯さんとかどうですか。

【すず】でもやっぱり恭介ってただの舞台装置じゃないですか。

【レニ】最初から一貫して女女関係を描いているっていう事も、まあ言えますね。

【いし】ほんとになんかね、なんか身勝手な男……

 【だち】自分が「まどマギ」が百合と断定するに至るのは、10話以降でほむらとまどかの気持ちが結局あの世界を構成しているというのが明かされて、作品全体の一貫性を理解するからで、要するに作品内で関係とか感情とかがどれくらいのウェイトを占めてるかなんですよ。だからその点において1話から9話までは、これを百合として推すかってて言われると違うなと感じました。

【レニ】じゃあそれ以降見たら百合として推せるということ?

【だち】まあ推してもいいですね。

【やま】推してもいい……。

【レニ】なんなんだその距離の取り方は……。

【だち】何だろう、多分これは百合として認識してなかった自分から百合として認識する自分への変化を自分で受け止めてまだいないということではないでしょうか。要するに自分自身の「まどマギ」観のアップデートができていないということです

 

 

杏子とさやかの関係

【やま】質問なんですけど、杏子とさやかの関係っていうのは百合に入るんですか?

【いし】それは僕も悩んでる。百合知ってる人でもあれは悩むと思う。映画だって、あくまで杏子からさやかへのクソデカ矢印があるのであって……。

【やま】えっ、これ片方のクソデカ矢印だけだったら百合になれないんですか?

【いし】それだけを証拠に百合という人もいる、みたいな感じ。

 【やま】僕は1話から9話までを百合って呼ぶかって話で、杏子とさやかの関係があるから百合かなって思うところがあったんですけど。一緒に死ぬって愛じゃないかなって。杏子の一方的な行動ですけど、一方向のそれだけクソデカい矢印があったらもう百合かなって思いました。

【いし】いーや分かるなあ。

【ちろ】希望よりも熱く、絶望よりも深い、愛。

【いし】それは話が違うからね?

【レニ】クソデカ矢印があれば百合、と。

【いし】さやかが魔女化する時に側にいたのも杏子だしね。そういったところ何か思うところあるよね。

【やま】杏子の境遇を考えると、一緒に死ぬ、になるのかもしれない。ずっと一人だっていうのがあるから、本当にさやかしかいないってなってるから。

【すず】杏子からさやかの執着、杏子の挙動が完全にさやかが好きな子のそれですよね。最初に会った時から。

【ゆう】確かに…好きな子にちょっかい出してるのかやっぱり……。

【いし】好きな子にちょっかい出すのが殺し合いになるかよ!

【すず】もうちょっと具体的に言うなら、杏子にとってはやっぱ、自分が捨ててしまった正義を貫こうとしているさやかが、自分が捨てた物を無邪気に掲けてる人間が、気になると言うか目障りと言うか、気になって仕方がないっていう、その関心の向き。あと、最後の方になると杏子にとってさやかは希望ですよね。希望にすがって杏子は無理心中……。無理心中なのかなあ?

【いし】やっぱりさやかから杏子への矢印がうまく見えてこないんですよね。さやかにとって杏子はちょっかい出してくるやつだから。

【やま】でもそれは映画のところであの、なんか、あー……ってなった。

【ゆう】最初嫌なやつ嫌なやつ嫌なやつで、その後に誤解してたごめんってなって、魔女化して、その後拒絶してて、劇場版はてえてえじゃないですか。

【やま】最後杏子からの矢印だけで終っちゃってたのが、映画でさやかが返してくれた、その心残りというか、あーあれが百合なんですね。

【ちろ】双方向性がなかったら百合ではないんですか?

【いし】僕はあると安心するだけで、なくても百合ではあると思います。それはね、関係性がより強固なものなので。1本の糸で繋がるより2本の糸で繋がった方が綺麗じゃないですか

【ゆう】おーすごい詩的なこと言う、すごい良い。

【レニ】縦の糸は貴女、横の糸は私……。

 

 

「百合」って、何?

【ちろ】女性と女性じゃないと百合じゃないっていうのは分かった、双方向じゃなくても百合というのも分かった、でも、女性が女性のことを好きってだけで百合になるの?

【すず】百合じゃないんですか?

【いし】百合ではあると思う。

【だち】広いのでそこら辺をどう扱うかは人によって違うとしか。まあ広いのでとりあえずそれは百合という概念に放り込んでかまわない。

【レニ】「百合」、って何?概念?関係?

 【いし】それは描きかたとか作品による。それがサブストーリーとして描かれたら凄い判断に困るんですけど、その感情を主においていた場合、それは百合です。それは作品によって違うので、境界例になります。

【レニ】「それは百合」っていうのは作品がってことですよね。

【いし】作品に対してです。矢印だけを称して百合というのは僕はなかなか厳しいなと思うところで。断言しづらくってすごく。そういったのはキャラクターコンテンツとかでよくあるかもしれないけれど。その作品に触れたうえで、そういった矢印がどういう作品内でどう扱われているかというのを僕は重視してます。

【レニ】その性質というのは「百合」という言葉でしか表現できないものですか?いろんな女性同士の関係を表す言葉って、友情とか恋愛とかレズビアンとか、色々あるじゃないですか。僕の得意な女学校の話するなら、S とか言われてたわけだけど。それでもなく、百合という言葉でしか表現できない何か。

【いし】百合という言葉でしか表現できない何か、ってすごく難しくないですか?

【だち】自分はそこは、未分化と言うか、その感情を名付ける前の、まだどの感情に属するかを決めかねている状態が百合だという認識です。

【やま】そうなの!?

【だち】多分、確かに分かれた時点では、その感情がはっきりした時点ではそれに名前をつけてしまうことも出来ますけど、感情って不定な、すぐコロコロ変わるものでもあるから、その感情全体というか、未分化だとか不定形だとか、そういう事を考えた呼び方だと思います。

【ゆう】あー。すごくしっくりきてしまった。百合に疎い自分が言うのもなんだけど。名指しっていう我々の通常の社会規範を逃れるその以前のものとしての百合、それはまさに社会規範からの逸脱であり言語というものの以前の萌芽的なもの。なるほど。

【やま】(スマホで調べながら)百合の定義を初めて見たんですけど、「複数の女性の間の何らかの関係性およびそれを描写するもの」……何らかの関係性って。

【いし】それはね、反例を出来る限り出さないためのあいまいな定義だから。

【やま】でもとにかく広い……何らかの関係性……。

 

 

【ゆう】ちなみに僕はほむらと杏子の関係に微妙な良さを感じてしまうんだけど。あのビジネスライクな関係。

【すず】分かります。

【ゆう】ワルプルギスの夜に立ち向かう時も、「叛逆」の映画でも、「あなたはバカじゃない」っていう一定の信頼があるんですよね。戦士同士の絆みたいな。そういうところに良さを感じてしまうのは百合なのかな。どうですか百合の方。

【すず】百合です。

【ゆう】百合ですか。

【すず】私、ほむらとマミも好きなんですよ。

【ゆう】あ~いいっすね~。

【すず】「叛逆」が凄すぎて。ほむら側からの矢印が他の所に向かうっていう。

【レニ】「叛逆」は百合アニメ……というか百合映画だという認識は、ゼロ研の人たちは共有してるんですか?

【ちろ】百合って何なのかやっぱよくわかんないです。

【レニ】ちろきしんは共有してなさそうですね。

【ちろ】ぱっと、これは百合だ!という感覚が僕の中にないです。僕もヘテロラブ作品に出てくる女同士の関係みたいのは好きなんですけど、なんだろうな。

【レニ】「これは百合だ」って名づけるような感覚が受け手の中に有るか無いかって問題なんですかね。

【いし】ゆぅらさんどうですか。

【ゆう】いや何か、皆さんの言ってることは結構わかるんですが……。何というか、僕は百合は「やが君」を通じてしか分からないんだけど、「やが君」の良さは分かるんですよ。でもあの良さとはちょっと違う気がするんだよね

【だち】作品全体を見るか、キャラクターを見るか、みたいな違いかな?

【ゆう】こういう言い方かな。女の子同士の良さはめっちゃ分かる。でも、「百合」ってパッケージされるものの良さはいまいちよく分からないって感じ。だから「まどマギ」が百合的かって言われると、分かんないってなる。そういう感じ。

【いし】百合はあくまで付加価値だから。

【レニ】百合を見出せる人と見出せない人の差がありそうですね。

 

 

野生の百合、庭園の百合、自家栽培の百合

【いし】僕はその違い、ストーリー重視かキャラクターの感情重視かだと思うんですけど、どうなんだろう。

 【すず】私はもうほぼ100%感情なんですけど、何でしょうね、ストーリーで中心的に描かれる感情ももちろん百合ですし……何でしょう。画面の端っこにある百合は百合じゃないのか問題、ありますよね。

【やま】な、なにそれは。

【ゆう】自分の中で似てるなって感覚があって。僕は「叛逆」見る時に、ほむらちゃんの感情にすごい焦点を当てちゃうんですね。それって、物語の構造と密接に関わってるじゃないですか。でも杏子とさやかの関係って、ぶっちゃけどうでも良いというか、ストーリーの錯綜線じゃないですか。つまり、ストーリーの本線の百合と錯綜した百合というか、整備された百合と野放図な百合があるのかと。

【やま】野生の百合……?

【レニ】で、そういう野生の百合がもっと欲しいって人が、同人誌として自分で育てるんですかね。

【だち】野生の百合と庭園の百合と自家栽培の百合がある。

【ちろ】たまに違法なものが出て来る。

【レニ】野生の百合と本線に絡む百合っていうのがあるとしたら、百合を野生の方に見出す人と、本線の百合の方を重視する人では、立場というか認識の違いがありそうだなって気がするんですよね。

【やま】「叛逆」が誰にとっても百合作品っていうのは多分その、整備された百合だからってことですよね。誰も何も言う余地がないというか、もうこれは百合だよって提示されてる。でも、百合をまどマギの1~9話に見出すかは人それぞれで。

【レニ】本線では書かれてないから1話から9話だけ見ると、杏子とさやかの関係に百合を見出せる人は百合だというし、そうでない人は不純物とか言い出す。

【いし】それ化学的な捉え方の比喩で……。

【やま】わかるよ、嫌なイメージはないってことだよね。

【レニ】似たような話で僕の想起したのは「セーラームーン」なんですけど。「セーラームーン」にはセーラーウラヌスセーラーネプチューンという公式カップリングみたいなのがいるんですけど、主人公はセーラームーンなわけですよ。で、ウラヌスとネプチューンの話をもっと欲しがる人は、百合を栽培してコミケで売ってるわけですよね。「セーラームーン」は百合アニメかって言った時に、認識が分かれてくるのかなっていう印象が、実感ではしてます。

【ゆう】なるほど。

【すず】「セーラームーン」は確かに百合じゃない気がする。

【レニ】「セーラームーン」は百合ではない……それはなぜ?

【すず】なぜ……あまり見たことないからあんまり言えないけど…………いや実際に見たら「セーラームーンは百合」とか言い出すかもしれない。

【やま】これは見出す人の感じですね。

 

 

【やま】結局、ゼロ研の人たちがゼロ年代を見出すかどうかにもちょっと似てるような部分はあると思いますよ。

【ゆう】多分ちろきしん君が、だと思う。

【ちろ】だって何見ても勝手に見えてくるんだもん。

【いし】結局嗜好の違いとかそういうところにあるんだろうな。

【ちろ】確かに僕は特に定義もせず「ゼロ年代性」という言葉を使っている……。

【いし】僕は作品を見ながら、百合はどこに散りばめられているかずっと探しながら読んでますね。フィルターとして最初に「あるかないか」っていうのが掛けられます。

【すず】あー。

【だち】あるある。それはある。

【いし】多分ちろきしんさんの場合は、ゼロ年代性があるかないかというフィルターを最初に作った上で、作品をそれを通して見てるんだと思いますよ。

【だち】自分は基本的にその、百合と言われる作品をずっと追って、追って百合を読み続けてきたので、やっぱりフィルターは抱えます。

 【すず】百合か否かを品定めするというよりは何か、普通に漫画読んでたら、突然女女感情が出てきて、うおーみたいな。突然百合が来たみたいな。

【レニ】僕もそれはある。

【すず】でも別にそれが百合漫画というわけではなく。

【レニ】ではなく?

【すず】そういう認識になるわけではなく、この漫画に百合が出てきたなって。

【レニ】それを作品全体に敷衍してこれを百合漫画だと言うことはしないんですね。

【いし】やっぱりフィルターに途中途中で引っかかっても、全体を通して引っかからないとなっていう。本筋に絡むか否かですね。

【すず】それ考えると「まどマギ」は徹頭徹尾どっからどう見ても百合なんですよね。

【レニ】確かに僕も1話から9話を見た時に「これを百合なのか?」ってクエスチョンだったけど、最後まで見るとテクストとして一義的にずっと描き続けてるなっていうのが分かって、確かになって思ったんですよね。

【すず】まあ私は1回見てるので、2回目だと色んな感情が補完されてて、全部最初から百合だったんだっていう。

【だち】自分も漫画から入ってたので大まかなストーリーを把握してたので、アニメ見ながら普通に、初見でしたけど、あっここ伏線なんだなみたいな感じだと思って。

【いし】わかるー。同じことやってた。10話で判明するクソデカ感情嗅ぎ当てちゃうじゃん、1話から9話。

【ちろ】警察犬かな?

 

 

まどマギ」の百合ラインについて

【ゆう】やっぱ気になるのが、「やが君」と「まどマギ」の女同士の関係性が全然違う気がしてて。あるいは「マリみて」「やが君」ラインと「まどか」ラインは全然違う感じがしてて。百合文研の皆さんが、「まどマギ」を百合の中でどういう百合感情に位置づけているのかが知りたいな。

【いし】「やが君」自体が特殊な気がするんだよな。

 【ゆう】あっそうなんですか?

【やま】あれは特殊なんですか?

 【レニ】「やが君」は「百合姫」の作ってきた百合漫画ラインにKAD●KAWAが便乗したんやろ?

【いし】ビジネス的なラインで言ったらそうかもしれないけど!

【ちろ】僕「やが君」の印象としては、なんか一般的な単線型ラブコメって言うかさ、この子とこの子が結びつくって決まってる単線型のラブコメをただ百合にしただけみたいな感じなんだけど。

【レニ】おっ戦争か?

【ゆう】僕の目線だとね、「やが君」から何か、「支配と従属」みたいな影が透けて見えるんだよな。

【やま】支配と従属!?

【ゆう】まだ言語化できてないんだけど。自分の言語化を越えてきたんだよ、「やが君」。

【いし】百合の中には友情からくる独占欲とか普通に描かれるので、そういったものと近しいものはたくさんあると思います。

【ゆう】あーそういう、なるほど失礼。

【だち】それ自体は特殊なものではなくない?

【いし】それはそう。「まどマギ」は別に始めから突き抜けた感情を描いているから、それは違うかもしれない。

【ゆう】別の聞き方をすると、「まどマギ」に類似する百合作品ってあるのかなっていうのを聞きたい。まあ感覚でもいいんだけど。『紫色のクオリア』っていうラノベがあって、それと似てるっていうのは、昔読んでて思った。

【ちろ】確かにあれそういや百合やったな。たしかにあれ「まどマギ」ラインだよね今考えると。ごめん今ゼロ年代研の文脈に無理やり回収しちゃったけど。

【レニ】ラインが見えないんだよなぁ……。

【ゆう】皆さんの「まどマギ」に感じる百合に近い百合の感じって何かあんのかなって。

【すず】『ユリ熊嵐』とかですかね。

【レニ】あー確かに。幾原邦彦ラインはそうかもしれない。「ウテナ」まだ全部見てないけど。

【すず】「ウテナ」ショッキングなアニメですよね。

【だち】なんていうか運命共同体みたいなところまで行っちゃう百合はなかなかない気がしますね。

【レニ】多分「まどマギ」のベースにあるのは「セーラームーン」系の魔法少女アニメで、魔法少女アニメのベースにあるのはホモソーシャル性というか、一緒に戦っていこうみたいな繋がりで、そういうのは、今までの百合漫画が歩んできた少女漫画的な男女の恋愛とか少女の友情とは違うのかなって気はする。

【ちろ】「まどマギ」って「セーラームーン」とか「プリキュア」みたいな、いわゆる女子アニメを深夜アニメの世界に輸入したみたいな感じだと思うんだよね。女子アニメのガワだけ深夜アニメに持ってきた。

【いし】コンセプトだけ持って来てそれを逆手に取る前提だったのかな。

【ゆう】感覚的にはうめ先生、今でこそ「まどマギ」の人だけど、当時は『ひだまりスケッチ』の人だったからさ。ガワが『ひだまりスケッチ』で中が虚淵

【いし】美しいバラのトゲが鋭すぎるんだよなぁ……。

 

【百合漫画大賞2021レビュー⑦】きたない君がいちばんかわいい

会員No.146です。前回からかなり伸びてしまった……

今回は百合漫画大賞2021第4位の作品をレビューをします。

ただ、今回はストーリーの中身にがっつり触れてのレビューになりますので、ネタバレもあるので、そういったものが苦手な方はブラウザバック推奨です。

 

【第4位】きたない君がいちばんかわいい

この作品は詰めこまれた性癖の数々から昨年開催された百合漫画大賞2020でも8位と高く評価されています。それが今年になり、4位と順位を上げています。

今回はこの作品の面白さを、練られたストーリー構成、絵柄とテーマのギャップ、心情表現のうまさの3点から見ていこうと思います。

あらすじ

「大好きだよ… わがままで傲慢で 自分勝手で でもそんなきたないあいちゃんが いちばん好き」

成績優秀でクラスカースト内上位にいる瀬崎愛吏には秘密がある。それは放課後の科学実験室でクラスではあまり目立たない大人しい印象の少女、花邑ひなこを辱めるというものだ。そのような愛吏に対し献身的な愛情を抱くひなこと、その愛情に愉悦を感じる愛吏の倒錯的で甘美な関係は、しかしクラスの人に発覚してしまい終わりを迎える。学校にいられなくなった愛吏はひきこもり、堕落していく。関係を保ちたいひなこはそのような彼女を見てどのような行動を起こすのか。

 

ストーリー構成について

この作品は主として愛吏とひなこの2人の関係を中心に話が進みますが、その周辺人物がストーリーに深く関わってきます。あらすじにもある通り、愛吏とひなこはクラス内では接点がないことになっているため、それぞれ別々のグループに属しています。

 

f:id:KU_yuribunken:20210714155410j:plain

 

愛吏が所属するグループ

愛吏→成績優秀な子。いじめなんてしないような女の子として振る舞っている

一叶→非日常性に憧れる子。スクランバーとか舌ピとかしてる

碧唯→夜遊びとかしている女の子。

咲奈→SNSとかに写真を上げてバズる子

 

ひなこが所属するグループ

ひなこ→ゆるふわで体が弱そうな大人しめの女の子

好美→悠子のことが好きすぎて色々と暴走しちゃう子

悠子→比較的純粋な女の子。でも発言に容赦がない

 

愛吏とひなこの関係が崩れるのは好美という子のせいなのですが、それは「汚らわしいこと」をしているひなこを悠子から遠ざけたくてしていることなんですね。じゃぁ実際に関係が壊れて悠子はどのように思うかというと、その関係性を壊した人のことが許せないというわけです。狙ったような結果がでなくて心が折れたりしてます。

愛吏グループのほうも、愛吏のしていることに対しては好美と同じように引いて、愛吏との関係性を絶とうとしたりします。しかし一叶だけ反応が違うようで、その非日常性に対し興奮してて愛吏にメッセージを送ったりしています。一枚岩ではないね。

 

愛吏とひなこの二人の周りにはそれぞれの欲望にしたがって多様な行動をします。複数の人間関係が互いに共鳴しながら展開していく物語は複雑で深みがあります。

 

絵柄について

ご存知のようにこの漫画は女の子の体液(よだれなど)が頻繁にでてきます。内容を見ても愛吏がひなこにすることや、人間関係のドロドロさを見ると重めの内容というのがわかるでしょう。しかしながら漫画の絵柄は軽やかです。

f:id:KU_yuribunken:20210714155131j:plain

このギャップから実際に行われていることのおぞましさが際立っているように思えます。

まにお先生の一枚絵もまた素晴しくエモいです。

 

心情表現について

負の心情表現や歪んだ感情表現がとてもうまい。

例えば次の例

f:id:KU_yuribunken:20210714160322j:plain

これはひなことの関係がバレてクラスでの地位が危なくなった愛吏が、同情を誘おうとリスカしようとした話です。実際は怖くてリスカできずに、しきれなくて包帯だけ巻くのですが、自身の所属する女の子2人にはそれが見透かされていたという話です。愛吏の打算とそれが打ち砕かれて辛くなっていってるのがよくわかります。

 

次の例

f:id:KU_yuribunken:20210714160706j:plain

愛吏のもとを訪れたひなこが愛吏に逆ギレされ傷を負ったところなのですが、ひなはそれを喜んでいるまであります。こわ。これまでのストーリーを眺めたときに、ひなこがどのように感じていたかが強烈に表現されています。この歪んだ感情の表現をぶつけられた読者は昂ること間違いなし。

 

漫画を通しての感情表現がとても上手で、それだけで気持ちよくなれてしまいます。

 

まとめ

そろそろ4巻がでますね。

 表紙、エモのかたまりでは。

『きたない君がいちばんかわいい』は中身のエグさばかりに目がいってしまいがちですが、ストーリーがしっかり作られており、単なる性癖漫画に囚われない面白さを秘めています。今後の展開もとても楽しみな一作ですね。興味を持った方には是非にとオススメします。

 

以上でレビューを終わりにします。

【百合文献検討会】「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して― 

書誌情報

田原康夫,2019,「「対」の関係性をめぐる考察 ―BL/百合ジャンルの比較を通して―」,身体表象(2),21-47.

 

・BLと百合はいわゆる「オタク文化」に内在する広義の「同性愛」表象として対比的に認識される。

・また「当事者性の希薄さ」が共通している。百合も「非レズビアンの立場から作られた非ポルノの女性同性愛(あるいはそれに類するもの)のストーリーとイメージ」(中里2002)と定義されることがあるように、現実社会の女性同性愛者とは必ずしも連続しない。

異性愛男女が「同性愛」表象を嗜好する理由として、「対等性」が指摘されている。熊田(2005)の議論は、BLと百合が読まれる理由の共通性を示唆している。

・共通性を持ちつつも明確に区別されたBLと百合を、具体的に比較した論考はほとんど存在しない。→本稿の射程

 

1、カバーイラストの分析

・分析対象:『はじめての人のためのBLガイド』および『百合の世界入門』に掲載された作品。漫画作品の「顔」である、単行本のカバーイラストに注目し、カバーイラストに2人の人物が描かれた百合作品101点、BL作品85点を分析。

・分析方法:メディアにおける権力構造の表現の類型を提示した、ゴフマン及び上野千鶴子の「服従儀礼化」を枠組みとして、二人の人物の構図を①上下の位置関係、②前後の位置関係、③スキンシップの様態、に分類。

 

①上下の位置関係

・BL、百合ともに、上下の位置関係によって人物間の権力構造をはっきりと示すカバーイラストが散見された。またこの上下関係は、性的な含意をはっきり帯びる場合もあった。

 

f:id:KU_yuribunken:20210629212055p:plain

 

②前後の位置関係

・「後ろから抱きしめる」構図において、権力構造が表象されうる。この構図においては、前面の人物が背後の人物に抵抗することが難しい一方、背後の人物は前面の人物に思うままに触れられるのである。

・このような構図は、BLにも百合にも共通して存在した。

f:id:KU_yuribunken:20210629212151p:plain

 

―図2において、「調理(生ハムを切りわける)」と「給仕――すなわち与えられたものを受け取るだけの作業――」が「権力関係」として示されているが、これは本当に「権力関係」なのか?また作中では「下」のほうが「姉」なのだが、テクストの内容との整合性はどう捉えているのか。

 

③スキンシップの様態

・スキンシップが描かれたカバーイラストは、BL51点、百合65点と半数以上。スキンシップの在り方(それが一方向的か、双方向的か)によって、示唆される権力関係に差異が生じる。

・新たに、スキンシップの描かれ方に基づいた分類を試みる。

・相手に触れようとする際に最も能動的に行使される「手の平」が、相手のどこに触れているかに注目。スキンシップのうち、片方の人物のみが相手に「手の平」で触れ(ようとし)ている「一方的スキンシップ」は、BLが67%、百合が49%だった。

 

・両者の傾向として、BLは手が大きく、細かく描き込まれる一方、百合は手が小さく、デフォルメされて描かれる傾向があった。

 ・これはジェンダーイメージに基づく男女の描き分けの他にも、BLのカバーイラストが「手」の表現によって権力関係即ち主体-客体の関係を読者に明確に伝えようとしているためだと考えられる。

 例①:『魅せる BL を描くための手足の絡み表現 230』

 …つかむ手に「関節と指を太くし男らしい印象」を与え、つかまれているほうの手に「関節と指を細くして、華奢な印象」を与えている(図13)

 

f:id:KU_yuribunken:20210629213227p:plain

 例②:触れる側の人物が見切れ、手のみが描かれる特異な構図(図14-16)

f:id:KU_yuribunken:20210629213248p:plain

― ジャンル性のほかに、描き手の性別にもよるのではないか。女性は手の描写に注目する傾向があるという話がある(らしい)が、BLの描き手はほぼ女性、百合の描き手は男性も女性もいる、という状況ならば、どこまでがジャンル性に起因するかは分からないのでは。「きらら系」などと比較してみると、何かわかったり…?

 

 

・一方、百合では、「四肢」へのスキンシップ、特に「手の平」へのスキンシップ=「手をつなぐ」構図が描かれたカバーイラストが、BLに比べて圧倒的に多い。(表1,2)

f:id:KU_yuribunken:20210629213821p:plain

f:id:KU_yuribunken:20210629213847p:plain

―こんなにはっきり違うのか……意外。

 

・「手をつなぐ」構図は、①相手の許可が無ければ難しいため、一方的に「つかむ」構図とは違い、そこに合意が形成されていることを印象付ける、②互いに主体性が発揮される行為であり、主体-客体関係を読み取るのが困難になる/弱体化する、という点において、二人の人物の対等性を読者に印象付けているといえる。

 

【まとめ】

・BLと百合は、構図によって二人の権力関係を示そうとする点で共通していた。しかし、「手」の描写に限れば、BLは行為の主体-客体の非対称性を、百合は行為の対象性を表現しようとしていた。

 

2、物語の「枠組み」における共通点と差異

・BL/百合のファンは、既存のマンガやアニメに描かれるキャラクターの関係性を同性愛的に「解釈」し、それらの作品のパロディを作るという慣習を共有しており、それは「カップリング」および「受け攻め」という概念によってシステム化されている。

・先述の表現上の差異は、「カップリング」と「受け攻め」という、共通の物語の「枠組み」に対するファンの姿勢と関連していると考えられる。

 

◎共通性について…

やおい・百合の二次創作では、原作から任意の二人を選び組み合わせる「カップリング」が行われる。

・BL・やおいでは、決定された「カップリング」に対し「受け攻め」が割り振られる。これは単なる性行為の役割だけでなく、キャラクターの人物類型をも規定する。「受け攻め」概念は、ジャンルにおけるお約束=「枠組み」として共有されている。これは百合にも応用可能である。

・前章でみたカバーイラストの権力関係は、「受け攻め」というジャンルの「枠組み」を表現しようとするものである。カバーイラストは読者に対し、その作品が帰属するジャンルを伝達するとともに、読者が共有する「枠組み」にアクセスすることで、物語展開への期待を喚起している

◎差異について…

やおいファンにとって「受け攻め」の割り振りは極めて重要である。一方、百合においては「受け攻め」は曖昧であるとされ、百合ファンはカップリングにおける受け攻めの役割分担にこだわりなくそれらの作品を享受していると考えられる。

BLファンにとって二者の「位置」は交換不可能であるのに対し、百合ファンにとってそれは交換可能なのであり、この嗜好の差異がカバーイラストに関わっている。

・では、なぜこのような嗜好の差異が存在するのか。

 

3、関係性の成就のために

・BLでは、物語が読者である異性愛女性の理想的な「ファンタジー」として機能する必要があり、物語の結末に関係性が「成就」した「象徴」として、アナルセックスの描写が用意されている。そのため、性行為においてどちらが「攻め」でどちらが「受け」であるかが不可逆的に確定される。

・また読者が「攻め」と「受け」に求めるものは、明確に異なっている。そのためBL・やおいファンにとって「受け攻め」に伴う非対称な役割分担にこだわる。

 

・百合において、BLのような「棒と穴」の「結合」によって関係性の「成就」を演出することは不可能である。またそもそも百合は必ずしも恋愛関係にあることを必要条件とせず、加えて読者の性別構成も男女相半ばしている。従って、百合は特定の読者層を措定することも、物語られる関係性の質を限定することもできない

・ならば、百合作品において女性同士の関係性の「成就」は、性行為以外の「何か」によってなされているはずである。

・とはいえ、女性同士の関係性の「成就」は、既にカバーイラストに示されている。即ち、「手をつなぐ」という行為そのものではないだろうか

 

―確かにそうかもしれない……という実感はある一方で、議論をレトリックによって進めているのではないか?という感じも否めない。次に示される例も、実証したい事柄に対してかなり特殊なものを持って来ている感じはある。実際に関係がいかに「成就」したのかを全部見てみるとかした方がよさそう。最も筆者自身、限界として認めれている点ではあるが。

 

「手をつなぐ」行為が重要な機能を担う例として、磯谷友紀『魔女の魔笛』(新書館、2013)

―一見したところ一方的なスキンシップが、中央コマ前後での位置関係のねじれにより、同時に双方向的なスキンシップにも見える。そしてこの攪乱的演出は、主体の好意と同時に、客体の潜在的な好意も示している。

f:id:KU_yuribunken:20210629214817p:plain


 

またこのような対称性はしばしば、構図の上でも提示される。「結合」ではなく「接合」

f:id:KU_yuribunken:20210629214931p:plain

f:id:KU_yuribunken:20210629214939p:plain

―こういう構図、確かによく見る。 

 

◎関係性のメッセージ

○BLの「結合」:主体-客体の区別を強化する。

・BLにおいては、「攻め」の愛情が「受け」に受け入れられるとき、両者に永遠が訪れるという「永遠の愛の神話=究極のカップル神話」がある。

・典型例として、「レイプ」展開-〈受け〉は〈攻め〉 の愛に気づき、彼の行為を許し、自分もまた〈攻め〉への愛を自覚し、相思相愛にいたる。

「『受け』と『攻め』というキャラクター類型を基軸とするBLに描かれる関係性は、強固な権力関係を前提としているのである」

 

○百合の「接合」:主体-客体の区別を弱体化する。

・「手をつなぐ」ことは、双方の主体性を前提とし(手をつなぎ合わなければならない)、また常にその持続可能性が問われる(手をつなぎ続けなければならない)。

・このような関係性は、固定的な関係性を描くBLと異なり、「永遠」のない、はるかに流動的な関係性である。

「百合が描く関係性は名づけられず、認識できない、常に流動する関係性なのである」

・関係性に名前を与えられないということは、既存のいかなる概念によってもそこに営まれている関係を「保証」することができず、関係性の成否は当事者にのみ託されているのである。そのような関係性は、他者に対する信頼によってのみ達成されるのだ。

 

―ギデンズ『親密性の変容』を参考しているのかと思ったら、していなかった。〈純粋な関係性〉じゃん……。

―明確に「恋人」とされないような作品で、その二人が作中でなんと表現されているのかは、調べたら面白そう。「大切な人」「大好きな人」をよく見る気がする。

―創作者側の視点として、BLは「結合」という終着点にいかに進んでいくかを考える一方、百合は「女の子が二人」という出発点から展開していくのでは。

 

4、結論と展望

○BL

異性愛女性のための、性的要素を含んだ恋愛物語

・「受け攻め」の固定的役割分担に基づく、棒と穴の「結合」による関係性の「成就」

・永遠の関係性への欲望を含意する

 

○百合

 ・読者層も、物語内容の定義も曖昧

・「受け攻め」の役割は固定的でなく、手と手の「接合」による関係性の「成就」

・流動的な関係性を持続させようとする欲望を含意する

 

―確かに、「いまここ」を強調する百合作品は多い気がする。逆に『ふたりべや』みたいに時間経過をはっきり描く作品は少ない気がする。

―闘争や権力といった男性性のイメージ、共感や協働といった女性性のイメージが、それぞれの作品の性質を規定している?

 

 ・この違いは、両ジャンルが共有する物語構造の「お約束」の違いによってもたらされるものであると推測される。

・またこの違いは、近代社会における「ロマンティック・ラブ」の両輪なのではないだろうか。→BLの「百合的」関係、百合の「BL的」関係の可能性。端緒として、ヤマシタトモコ作品:二人が永遠の「対」として結ばれる「ハッピーエンド」に対して距離を取っている。

 

【百合漫画大賞2021レビュー⑥】きみが死ぬまで恋をしたい

最近スタァライトされてきたはたはたです。しっかしあそこまで素の重い感情を相手にむき出してぶつけ合う(物理でも)作品って本当に破壊力高いですね…。よくわからない部分も多かったので多分また数回見に行くと思います。まだ見てない人も映画館で見てみることをお勧めします。百合好きは損しないと思いますよ。

【第5位】きみが死ぬまで恋をしたい

 

 この物語は、身寄りのない子供たちを受け入れ教育し、戦争に駆り出す、孤児院兼国戦用魔術兵器育成機関(1巻9ページより引用)が舞台です。戦闘が不得意で、平穏を願う少女のシーナと、桁違いに強くて戦争に行く時でも笑っている精神的に幼めな少女のミミの二人を中心に話は進んでいきます。この二人が同室となり、日常をともにしながらも、ミミは度々戦争に駆り出され傷つきかえってくる。このような生活の中で、彼女らの心がいかにふれあい、変わっていくのかというようなことが描かれています(あくまで僕の感想です)。

 さて、早速この作品を読んで僕がよかったと思ったところを紹介していきたいと思います。

まずは、二人の関係性とその変化です。まぁ、百合漫画ですからね、そこは当然推せるポイントになりますよね。性格というか性質が真反対の二人が互いに影響を与え合って変わっていく百合、非常にいいものです。最初、シーナはミミに対して、理解できないという気持ちからくる苦手意識がありました。しかし、ミミも怪我すれば痛いし、痛いものは嫌だということを理解し打ち解けていきます。

f:id:KU_yuribunken:20210611060233j:plain

ちょっと理解できるようになったシーン

 とはいえ、この時点ではまだまだ、シーナのミミへ向かう感情は深いとは言えないと思います。なんやかんやあってキスとかして心は揺さぶられてますけど。この後、シーナとミミは友達であることを確認し、ミミの秘密を共有したり、微笑ましい日常を送ったりして徐々に仲を深めていきます。その後、シーナは戦場から血にまみれて帰ってきたミミに対して、戦争で戦った相手にも帰りを待つ人がおり、戦争というものがいかに残酷なものなのかを説きます。この後、保険医(ミミの保護者的な立ち位置かつ戦闘後のアフターケアをする役の人間)にその考えの甘さを諭されたうえで、そのうえで本当に何を望むのかを考えるように言われ、結局出した答えは”ケガしないで帰ってきて”というものでした。ここにきて、シーナからミミへの感情が、ちょっと怖い→気になる子→友達→家族的な関係(導いてあげる感じの意識強め)→家族的な関係(親愛の情高め)というように推移しているように感じました。自分の考えと現実のギャップに気づくにつれて仲が深まっていく感じが何とも尊いものがあります。

f:id:KU_yuribunken:20210611071810j:plain

自分の願いのアンサーをだすシーン

 しかし、ミミに対するシーナの感情はどちらかというと母親っぽい感じで、また、シーナに対するミミの感情も母親に向けるそれっぽくもあるので、もしこれがはっきりした恋愛感情になるならば、どのようにしてそうするのかは気になります。

また、シーナ、ミミのクラスメイトのセイランとアリの関係性も非常に尊いものです。この二人の関係性は最初からほぼ恋仲として完成しています。真面目で、施設に対して恩義を感じているセイランは戦争に行って施設に恩返しすることを願っている一方で、アリのほうは、第一にセイランのことを考えており彼女のことを失いたくないと思っています。しかし、セイランの強い意志を尊重して、アリはセイランに戦争に行かないでほしいとは言えないんです。そして、セイランを心配しながらも支えているんですよね。これが、切なくも美しく見えて本当に尊い…。

f:id:KU_yuribunken:20210611085115j:plain

切ないですね…

振り返ってみると、この二人はミミとシーナの二人とは心持ちが結構対照的なんですよね。ここら辺も今後につながってくるかもしれないですね。今月四巻が発売なのでそれが非常に楽しみです。こんなところでレビューを終わろうと思います。

【2か月】京都大学百合文化研究会の活動を振り返る

レニです。京都大学百合文化研究会が設立から2か月を迎えたので、今までの活動を振り返りつつ、今後の課題や展望を考えていきたいと思います。

 

設立の経緯

 自分はもともと「京大漫トロピー」という漫画読みサークルに所属しており、そこで色々な漫画を読む中で、百合も好きなジャンルの1つとなりました。京大漫トロピーには他にも何人か百合好きの会員がいて、「京大には百合のサークルがないよね~」みたいな話をしばしば聞いていました。

 そんな中、3回生になって専門として社会学に取り組むことになり(とはいってもプロパー社会学ではなく傍流ですが)、漫画に興味のあった自分は、「百合」というジャンルを研究テーマにできるのではないか?と考えるようになりました。結局百合で卒論を書くことはなかったのですが、その時にいろいろと調べたりして、「百合」を「文化」として「研究」するための素地が出来上がったわけです。この辺の話は漫トロピーのブログで書いたことがあるので、割愛します。

mantropy.hatenablog.com

 

 そして無事卒論を提出し、修士1回生の4月を迎え、なんだかんだあって、京都大学百合文化研究会を立ち上げることになりました。「なんだかんだ」の部分にはいくつかの要因があるのですが、簡単に上げると、

 

修士で再び「百合」という研究テーマに取り組む可能性が出てきた

・しかし自分には百合を鑑賞する経験がまだまだ足りず、そのような場が欲しかった

・ちょうどその頃、漫トロの後輩が「ゼロ年代研究会」を立ち上げており、それに触発された。場が欲しければ自分で作ればよいのだと気付いた

・漫トロの百合勢に声を掛けたところ好意的な反応があり、またTwitterで検索してもそれなりの需要がありそうだった

・活動が成功したらバンバンザイだし、人が来なくても漫トロ百合勢で情報交換とか、最悪ブログで自分の研究の進捗報告とかすれば良いので、失うものがなかった

 

 そんな感じで、深夜テンションでTwitterのアカウントを開設し、明けて4/10に百合文研の立ち上げ宣言をブログで行いました。こうして、京都大学百合文化研究会がスタートしたわけです。

ku-yuribunken.hatenablog.com

 

活動の振り返り

①ビラを貼る会(4/18)

 まだ何も決まっていない中で、とりあえず宣伝はしたいよねということで、突発的に開催しました。正直誰も来んやろと思っていたが、僕以外に6人も来ていてビックリしました。フォロワー、実在していたんやな……。研究室のDの先輩に「この前吉田南歩いてたら『百合文化研究会』ってビラがあったんだけど、あれ君がやってる?」って聞かれたので、自首しました。

②百合を読む会(4/20~)

 皆で集まって、百合作品を持ちより、読む会です。名前は「桜を見る会」を意識しているとかいないとか。参加者ごとに守備範囲が違うので、古の少女漫画からゼロ年代黎明期の作品から同人誌から今年出た最新作まで様々な作品が集まり、毎回勉強させてもらってます。一番最初の宣伝ツイートで2003~7年の『百合姉妹』と『コミック百合姫』の画像を載せたらそこそこ拡散されてビックリした覚えがあります。

 

③百合漫画大賞2021レビュー(4/23~)

 サークルの存在価値を例会だけにしたくないという想いがあり、ブログを積極的に活用たいと思い、メンバーの自己紹介と肩慣らしもかねて、「百合ナビ」の「百合漫画大賞2021」をレビューしていこうという企画を立ち上げました。最近更新が滞ってますね……終わるころには2022年かな?

 

④私の世界を構成する百合のような何か(5/4)

 「自分の百合遍歴をプレゼンしよう!」という趣旨のオンライン企画です。本当はゴールデンウィークなので例会をしない予定でしたが、せっかくDiscordがあるし……ということで立ち上げた突発企画でした。にも関わらず多数の参加者が来てくれて、それぞれの人の百合観や百合に対する思いが伺え、また自分の百合に対する認識が相対化される機会にもなり、かなり良い企画だったなと思います。名前は天野しゅにんた『私の世界を構成する塵のような何か』のもじりで、そこそこ気に入っています。

 

まどマギ鑑賞会(5/5、5/8)

 Twitterで「ゼロ研と百合文研でまどマギ鑑賞会したい」と呟いたら、ゼロ研の人が反応してくれて、これまた突発的に企画されました。自分は恥ずかしながら「まどマギ」を見たことがなかったので、この機会に見れて良かったです。また鑑賞会の後に百合文研とゼロ研の人々で座談会を行い、作品に対する認識をぶつけ合いました。座談会を文字起こししてブログで公開しよう!という話だったのですが、ちょっと文字起こしが大変すぎて……いったん保留で……すみません……。鑑賞会は今後も積極的にやりたいですね。

 

⑥百合文研の百合文献検討会(5/11、5/25)

 このサークルを「愛好会」ではなく「研究会」にしたのは、やはり百合に没入するだけではなく、一歩引いたところから捉え直して初めて、新しく見えてくるものがあると考えたからなんですね。その意味でこの企画は、「研究会」にしたからこそ出来たことなのかなと思います。初回は事前に資料を読み、発表者がレジュメを作り、参加者が疑問点を提示していくというゼミ形式で行ったのですが、案外うまく行ったので、サークルのポテンシャルを感じました。これも今後に繋げていきたいですね。「百合文研」と「百合文献」で同音異義語なのがオシャレポイント+100点。

 

今後の展望と、課題

①活動をマンネリ化させないために

 最近、活動がマンネリ化することに対する危惧を感じるようになりました。とりあえず「百合を読む会」と称して毎週火曜日に集まって百合作品を読んでいれば、サークル活動として成立してしまうので。しかし、ただそれだけのサークルになってしまうのは勿体ないので、もっといろんな角度から、皆が楽しく活動できるようなサークル活動にしなければ、と考えています。

 現状自分だけのワンマン運営に近い形になっていますが、「こんな企画がしたい!」というアイデアがあれば、是非!!!やりましょう。

 

②コロナの中でできること

 現状、コロナウイルスの感染防止のために京大の教室が使えず、理学部6号館下のちょっとしたスペースでの活動を強いられています。本当だったら例会でプロジェクター使って鑑賞会とかしたいんですけどね。またオンライン授業ということもあり、自宅生の会員が活動に参加しづらいことに申し訳なさを感じています。オンラインの企画も充実させたいなと考えてはいるのですが、なかなかアイデアがなく……。一応6/20までが緊急事態宣言となってはいますが……五輪期間中だけ解除して感染者増えてまた緊急事態宣言になるのは目に見えていますし。

 

③没頭することと一歩引くことのバランス

 自分は根っこに研究という視点があるので、どうしても「一歩引く」方に向かいがちなのですが、それがサークルの中でどうなんだろう……と思う瞬間があって。純粋に百合に没頭したい人もいるわけで、自分のスタンスが過度にプレッシャーになってはいけないなぁと、そのバランスのとり方を考えるようになりました。よく「それは百合なんですか?」とか聞くけど、単純に受け手の「百合」観を聞きたいだけで、決して圧をかけてるわけではないんです……。

 

④会誌を作りたい

 会誌を作りたいね。会誌を作ってコミティアとかで売りたいね。NFは今年もあるか分からないけど。印刷費とか作業時間とか全然考えてないけど。

 

 

最後に

 何はともあれ、サークルを2か月持続させることができました。ひとえに会員の皆様、Twitterで反応してくれる皆様のおかげです。今後ともよろしくお願いいたします。

【百合漫画大賞2021レビュー⑤】雨でも晴れでも

こんにちはこんにちは、会員No.146です。今回は百合漫画のレビューをします。

 

 

【第6位】雨でも晴れでも(電撃コミックスNEXT)

 以下Amazonにあるあらすじの引用

 

神社の娘で方言がコンプレックスな山田 美古都と、
仏頂面で周囲から恐れられる生徒会役員、猫崎 蓮。
全寮制の女子校”有頂天高校”で出会った彼女たちは、
毎日のように放課後をふたりで過ごしている。

ふたりの共通点は、ほかに友達がいないこと。
そしてお互いのことだけを、特別な友達だと考えていること。

「猫崎さんがわたしを見つけてくれた時ーー世界に色がついたんよ」
巫女装束だって関西弁だって、美古都さんの全部全部…かわいいって思ってたわ…」

ひとクセもふたクセもある少女たちの青春と心の交歓を描いた
百合恋愛コメディ『雨でも晴れでも』第1巻ついにリリース!! 

 

この漫画が同作者による『とどのつまりの有頂天』という漫画のリニュアール版となっています。

 

『とどのつまりの有頂天』は百合漫画大賞2019で大賞を受賞しています。この作品がコミカルなのに対し、『雨でも晴れでも』はどちらかというとしっとりしています。

 

 

 1巻時点では強い差異は見つからないですが、2巻になると明かに違うのでそういった面を見ながら読むのも面白いので、読み比べてみるのもよいと思います。

 

 

では作品の具体的なレビューに移ります。

 

ます感情の豊かさです。

f:id:KU_yuribunken:20210516130953j:plain

第1巻p4,5

感情が伝わってくる……!!

緊張→感激→嬉しいという気持ちの動きがよくわかります。これはキャラクターごとに向けていく感情にも言えることで同様です。また、キャラクターごとの感情表現もさまざまで、たとえばこの山田美古都は上のような身体で感情表現をしますが、彼女と対をなる猫崎蓮は顔に出くるという感じです。

 

それぞれのキャラクターたちは感情が豊かなので、ページをめくるごとに表情は目ぐるしく変化していきます。表情を追っていくだけども十分に楽しいです。

 

 

次にテンポの良さ。常時ハイテンションで話しは進んでいくのですが、その中でも各話ごとに溜めて、緊張し、解放する、というリズムを保っています。例えば1話では猫崎蓮が思わず山田美古都を抱きしめるシーンがあり、「どうなるんだ?」という緊張してページをめくると雪崩れこんでくる謎の学生たちがっ!とそれまでの空気を壊して弛緩させます。読んでいてここに気持ちよさを感じますね。

f:id:KU_yuribunken:20210516133119j:plainf:id:KU_yuribunken:20210516133105j:plain

 

さて最後に、この作品の百合的な面白さについて触れます。

先に要点をまとめておくとキャラクターたちのもつ強い感情で絶叫します。たとえば猫崎さんは美古都が他の人に可愛い可愛いと言われて照れているときに、(ずっと前からそう思っていたのに!!)というような反応をします。感情がデカい。BSSにも似たそんな思い、良いですね。

また2巻になると、好きな人に忘れられている!!と勘違いした人が、たとえ悪印象でもいいから私の存在を刻みつけてやると思い切った行動にでたりします。またそうやって私が喜ぶことをする。

 

 全体的に独占欲が強めなんですね。その感情を浴びるだけで満足します。

 そういった想いが伝わってくるから、まだくっつかないでいることにもどかしさを覚えます。でもそれが良いんだ……

 

以上で『雨でも晴れでも』のレビューを終わりにします。